91 作文コンクール、あるいはかけがえのない命 

2012.9.16


 勤務校では、古くから国語科の行事として「作文コンクール」というものがある。制限時間の80分以内で、その場で出された題(テーマ)について400詰め原稿用紙3枚以内で作文を書くというもの。中1から高3まで、1校時に一斉に行い、学年ごとに優秀作品が5名以内で選出される。このうち入選作は、後に全員に配られる冊子に掲載される。佳作は名前だけ、冊子に掲載される。賞状と賞品もでる。中には6年間のうちで1回でも入選しようと意気込んで楽しみにしている生徒も稀にいるが、ほとんどの生徒にはすこぶる評判が悪い。

 ぼくが在学中に始まった行事だが、ぼくもこれはイヤだった。何しろ、いきなり「窓」とか「水」とかいった題が出されて、さあ書けと言われたってそうそう簡単に書けるものでもない。ところが、冊子に載った入選作をみると、どうしてこんなことが書けるの? って驚くくらいの作品が載っている。つくづく「出来るヤツは出来るんだなあ」と思い知らされたものである。

 そういうわけで、中1の授業で、9月の20日に「作文コンクール」があります、って言ったら、生徒は、エ〜、何それ〜! って大騒ぎ。中身を説明すると、そんなの無理だよ〜、書けっこねえよ〜、と身もだえしている。まあ、そう言うな。みんな作文書くのは苦手だろうけど、文章というものには、書く手順というものがある。そこのところをオレが伝授するから、頑張って書きなさい、てなことを言って、数時間をかけて、そもそも文章とはどういうもので、何のために書くのか、また、作文コンクールではいきなり題を出されるわけだが、それにどう対処したらよいのか、などということを話した。

 その具体的な内容の核心は、題が出たら、それについて「論ずる」のではなく、それに関する「経験談」を書きなさいということだ。例えば「自然」という題が出たら(これは数年前に実際に出た)、「自然とは何か」とか「自然保護をどう進めるべきか」などと論じてはいけない。別に論じてもいいんだけど、どうしても、80分、1200字以内では、論じきれないし、第一、こういうことについていくら論じても結局はどこかで誰かが言っていたことの焼き直しになってしまう。つまりオリジナリティがない、そのため新鮮味に欠けるということになってしまう。

 ところが「経験談」を書けば、それがどんなに小さな経験でも、それは君のオリジナルの文章になる。つまり、君たちの経験はいつもオリジナルなんだ。たとえ、道でけつまづいて転んだとしても、その時の君とまったく同じようにけつまづいて転んだヤツはいない。転んだ時、転んだ場所、転んだ理由、転んだ時の気持ち、転んだ時の周りの人の反応など、ひとつひとつ挙げていくと、みんな違う。その経験は、世界でたったひとつの経験なんだな。問題は、その経験をどこまで細かく書けるかということだ。わかったね。「経験を細かく書く」これがコツだ。

 さあ、それでは、練習だ。この夏休みの経験の中から、ひとつだけ選んで、それについて細かく書いてみよう。そう言って600字詰めの原稿用紙を配り、20分ほど書かせてみた。

 え〜、忘れた。忘れたって、年寄りじゃあるまいし、オレだって少しは覚えているぞ。別に、何にもしなかったもん。いいかい40日間も君たちは生きてきたんだよ、何にもないわけないだろ。だって、どこも行かなかったし。どこも行かなくても、朝は起きて、ご飯は食べたろう。それはそうだけど……、書くほどのことでもないし……。

 自分が生きて過ごしてきた40日間は、どこをとってもオリジナルな経験に満ちていることは確かなのだが、そのことに気づくことは、実は中学1年生には難しい。だからまた、君らの命は、かけがえのないたったひとつの大事な命なんだよ、と口を酸っぱくして言って聞かせても、そのほんとうの意味を彼らが受け取ることもまた難しいのだ。それほどまでに、彼らは充実した命を、自分で自覚しないままに生きているのだ。十分に生きているからこそ、それを「細かく書く」必要性など感じないのだ。

 そのことを知らずに、あるいは十分に自覚しないまま、何かあると、教師は生徒にむかって判で押したように「命の大切さ」を説いて事足れりとする。ほんとうに生徒に向かって言わなければならないことは、多分そういうことではないはずなのだ。


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