89 ずっとこのまま 

2012.9.2


 「スギちゃん」が、テレビ番組の収録で、10メートルの高さからプールに飛び込まされ、胸椎骨折の大けがをして全治3か月だという。はじめ、胸椎と聞いて、肋骨だろうと思っていたが、背骨である。これはもう大変な大けがだ。こういう話を聞くと、テレビはヒドイなあとつくづく思う。いったい、いつまでこんなことを繰り返すのだろうか。

 「スギちゃん」は大好きで、出はじめの頃は、録画したくらいだ。あのどこか自信のなさそうな笑顔が何ともいえなかった。それに「だぜ」が、ぼくらの世代では日常的な言葉だったのに、今では笑いのとれる言い回しであることを納得させてくれたことも印象的だった。というのも、「スギちゃん」の出現以前に、ぼくが授業でときどき「──だぜ。」とか「──なんだぜ。」とかいうと、決まって生徒は少し笑って「だぜ、だって。変なの!」って顔をしたからだ。なぜおかしいのか分からなかったが、結局、それほど「だぜ」は廃れかかっていたのだ。

 ぼくらの世代だったら、片岡千恵蔵の映画『七つの顔の男だぜ』は誰でも知っているし、日活の映画なんて見ていたら、それこそ「だぜ」のオンパレードだったのではなかろうか。そのほとんど廃れていた「だぜ」を復活させてくれた「スギちゃん」だもの、応援しないわけにはいかないではないか。それなのに、テレビにこんなヒドイ扱いをされる。まったくどうしようもない。かわいそうでならない。

 TBSの「落語研究会」に出てきた柳家花緑が枕で、落語ブームだっていわれるけど、そんなことはないと思います、って言っていた。落語ブームじゃないんですよ。お笑いブームなんです。だって、売れっ子の漫才の人が握手会をしたら1000人集まったんですよ。その間、彼らは芸をしないで、ずっと握手しているんです。この「落語研究会」では、さっきから何人もの落語家が必死で演じていても、ここには1000人いないですよね。

 さらに、花緑は、こんなことも言った。わたしは、まだ日本人に落語の面白さは「ばれてない」と思います。日本人は、まだ落語のことを知らないんです。落語入門のDVDを作るときに、なるべく落語のことを知らない人と対談した方がいいと思って作家の室井佑月さんにお願いしたら、彼女、「落語の人って、着物きてるから、なんか、相撲とか、歌舞伎とかと同じかと思ってた……」みたいなことを言ってました。でも、みんなそんなもんなんじゃないでしょうか。

 更に、花緑はいう。もういいです。わたし、寄席で、空席があるとほっとするんです。だって、空席があるってことは、希望者は全員入れたってことですものね。誰も入場を断らずにすんでよかったって思うんです。ですから、もう、このままでいいです。ず〜っと、このまま、何にも変わらずにやっていきましょうよ。だって、もし、日本人に落語の面白さが完全にばれてしまったら、チケット、簡単にとれなくなっちゃいますよ。そうなったら大変です。

 この枕、感動した。ほんとうにその通りだ。「スギちゃん」だって、テレビなんかで人気にならなければ、食うには困ったかもしれないけど、コアなファンに囲まれて、少なくとも大けがなんかしないで生きていけたんじゃなかろうか。いや、そんな甘いもんじゃないよ。人間国宝の孫の花緑だから、そんな暢気なこと言ってられんだという声も心の中ではするが、今は、やはり花緑のいうことに心から共感したい。

 文楽の面白さがわからない市長がいたってちっともかまわないのだ。むしろわかれという方がおかしい。わかれなんて言うから、「もう一度」見て、「結末の演出がよくない」なんてタワケタことをほざかれるのだ。じゃあ、その市長の仰せの通り、演出も変えて現代的にして、いっそ三味線もやめてギターにして、義太夫もやめてラップにして、民衆の圧倒的な支持をうけて文楽が「再生」し、もう入場券なんて1週間徹夜で並んだって買えないぐらいの人気になったとして、それがいったい何なの? ってことだ。文楽も「あんな退屈なもの、もう二度と行くもんか。」って言われているうちが華なんじゃなかろうか。


Home | Index | Back | Next