88 夏の終わりに 

2012.8.31


 なんかつかれてきた。

 これもあながちこの夏の猛暑によるばかりとも限らない。世の中が全体に、つかれさせるものになっている。こんな時代がかつてあったろうか、と思うほどだ。そうは言っても、こんなことは初めてだ、というのは、何かがあったときの常套句で、実は、初めてではないことの方が多いとは思う。もっともっとヒドイ時代はあったに違いない。でも、しかし、昨今はつかれさせることばかりなのも事実だ。

 つい最近ちょっとした話題になっているのが、スペインの小さな教会のキリスト像の修復だ。湿気で痛んだ絵を、80代の素人のおばあさんが勝手に修復したら、サルみたいなとんでもない顔になってしまい、「世界最悪の修復」と話題になったら、その画像をネットで見た連中が、「いいじゃないか」てなことで盛り上がってしまい、現地はもう押すな押すなの大賑わい。その画像を使ったTシャツだの、ぬいぐるみだのの商品も飛ぶように売れているという。テレビに出てきた、おばあさん観光客などは、「これは永遠に残すべきだわ。」なんて興奮してしゃべりちらす。なんでこんなバカな感想を世界中のテレビで放映するのかと呆れてしまう。こういうの見ているとほんとにつかれる。そして、絶対これは、昔はなかったことに違いないって思う。

 ネットがない時代には、こういうことは起こりえなかった。変なばあさんが、勝手に由緒ある絵を台無しにしてしまったのだ。神父さんにコテンパンに叱られて、村の人からは「このバカたれ!」なんて罵られて、まあそれでおしまい。刑務所に入れられてたかもしれない。あんな絵が、世界中の話題になるなんてことは絶対になかっただろう。

 ところが、ひとたびネットに登場すると、注目するヤツが出て、それに乗っかる人間がいると、あとはもう雪だるま式に膨れ上がる。それにテレビが飛びつく。枯れ草に火がつくようなもので、あっという間に広がり、多くはあっという間に消える。

 スペインの片田舎の教会の絵がどうなろうと知ったことか、と無視してもいいのだが、昨今の「つかれる」ことは、たいていこういう構造をしていることが問題なのだ。

 大阪のハシモト人気も、これとまったく同じではないか。テレビとネットのない社会で、彼が人気を博すことができたろうか。

 「前田敦子の卒業」だって、よくまあここまで仕組むなあというくらいのあざとさで、それに完全に乗っかっての大騒ぎ。それもファンの狂騒だけならともかく、それをマスコミがあたかも大事件であるかのように報道することが問題なのだ。人間をクイモノにする点では、オレオレ詐欺となんら変わるところはない。

 今の世の中は、結局、愚かな民衆がいて、それをクイモノにしてセッセと金儲けに励む人間がいる、というのが基本的な構造らしい。もちろん、昔からそうだったといえばそうなのだが、それが、ネットやテレビの力で、超巨大化しているということだ。

 そしてツラツラ我が身を振り返ってみると、ぼくもどうやらその「愚かな民衆」の一人であることに間違いはなさそうだ。ああ、やっぱり、つかれる。はやく秋が来てほしい。そして人類も、いいかげんに「稔りの秋」を迎えてほしいものだ。


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