79 落語家の風情 

2012.7.3


 BSで風間杜夫の落語を聞いた。彼が落語をやっているのは以前から知っていたが、実際に聞いたのは初めてだった。演目は「火焔太鼓」。「火焔太鼓」と言えば志ん生である。そういう演目をわざわざ選ぶという所に風間の自信のほどがうかがえるということなのかどうかしらないが、全国各地で落語をやってきたという実績もあるようだから、自信はあるのだろう。

 さすがに役者だけのことはあって、セリフのやりとりなどはうまいものだ。二つ目あたりの若手に比べれば、ずっとうまいことは間違いない。しかし、聞いていて、どうも疲れてしまう。一生懸命やっているのはわかるのだが、どうにも面白くない。やっぱり餅は餅屋ということなのだろうか、としばらく考え込んでしまった。

 極端な言い方をすれば、風間の落語は、落語ではなく、やっぱり芝居なのだ。ただ、その芝居をひとりで落語風にやっているに過ぎない。そう言い切るほどの落語通ではないけれど、どうにもそんな感じだった。

 風間の落語のどこが面白くないのか。それは、どこにも「抜けたところがない」というか「隙がない」というか、まあ、そういうふうにでもいうしかない。隅から隅までびっちりとアンコのつまったキンツバみたいといったらいいだろうか。今の落語家でいうと、立川志の輔あたりのテイストに似ている。志の輔は、もちろん風間と比べるのは失礼というものだが、この「びっちり感」ではよく似ている。

 落語家というのは、ほんとうに不思議な種族で、寄席には出ているが、売れていないことが歴然としている下手くそな落語家でも、そこに座っているだけで、えもいわれぬ風情がある。こんなに下手で、ちっとも面白くなくて、この人どうやって生活しているのかなあと心配になるような落語家こそが、ほんとうに落語家らしい落語家ではないかとさえ思うのだ。そこにただよう、何ともいえないワビシサ、これがいいのである。

 出てくるなり、すみません、もう少しで終わりますから、どうぞ帰らないでくださいだの、もう少しの辛抱です、そうすれば自由になれますだのといった挨拶が、結構真に迫ったりしていると、なかなか切ない風情がかもし出される。かつての名人文楽でさえ、「あいだへはさまりまして、相変わらずおなじみのお笑いをもうしあげることにいたします。」てな口上になるわけで、わたしなんぞは、お目当ての方の間にはさまっているつまらぬ噺家でして、お話することも何の新しいものでもございません、どうぞ気楽に聞き流してやっておくんなさい、とでも言いたげな謙遜な態度で、聞く方は、とんでもない、この名人芸を聞き逃してなるものかと膝を進めたことだろうが、やはり、落語である以上、どこかこうした「抜けのよさ」が必要なのである。

 どうせつまらぬ与太話なのだから、そんなに真剣に聞かないでね、というのが名人だろうが、前座であろうが、落語の基本的なスタンスだとしたら、風間杜夫の落語が面白いどころか、どこか人を疲れさせてしまうのは、どうだ、オレは落語家じゃないけど、志ん生の「火焔太鼓」だってできるんだぞ、よく聞いて感心してくれ、とでも言いたげな「意気込み」が落語全体に滲み出てしまっているからだと言えるだろう。

 志の輔なんぞも、落語を語っている途中で、ふとやめて「いいですねえ、ここ。しびれますねえ。」なんて平気で言うのだ。もちろん、ネタのよさに「しびれている」らしいのだが、そんなことを言っちゃあオシマイではないか。自分で自分の芸に酔ってるとしか思えない。これじゃ、落語ではない。

 落語家というのは、たぶん、いつも、崖っぷちにいる存在だ。社会にとっては、いてもいなくてもいいような、価値のあるようなないような実に不安定な存在だ。そして、落語家自身が、その自分の無用さ、不安定さに十分気づいていて、それでも、どこかやけっぱちになって、自分の芸にしがみついている、そんな落語家こそが本物の落語家なのだろうと思う。

 俳優として押しも押されぬ名声を持っている風間杜夫に、その「崖っぷちの存在感」を求めることはどだい無理な話なのである。立川志の輔の落語が、どうも面白くないのも、「ためしてガッテン」などの司会者として、彼自身が「押しも押されぬ」人間となってしまった結果なのかもしれない。談志が生きていたころ、志の輔に、「ガッテンなんて早くやめちまえ。」と言っていたと、志の輔自身が言っていたが、談志にしてみれば、案外本気の忠告だったのではなかろうか。

 人間国宝になりながら、永谷園の「あさげ」のCMに出て、「これがインスタントかい?」なんてとぼけていた小さんなんかの風情がなつかしい。


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