78 何で行くの? 

2012.6.30


 小笠原が世界自然遺産に認定されてから、観光客が急増していて、そこで改めて問題になっているのが、観光客によって持ち込まれる植物などが小笠原の固有種を危機に陥れているという問題で、その対策のために船から降りた乗客の靴の泥などを念入りに落とすなどの対策が取られているという。

 世界自然遺産の認定は、地元の人たちの願いでもあったろうし、その願いは小笠原固有の動植物を守りたいということでもあったかもしれないが、むしろそのことで少しでも多くの観光客の呼び込みたいという気持ちの方が大きかったのではないかと勝手に推察するのだが、さあ、どうなんだろうか。小笠原の人たちだって、民主党のように分裂状態ではないという証拠はない。

 自然の保全と観光というのは、昔からある解決困難な問題だ。美しい自然を守りたいという思いと、人に来てもらってお金を落としていって欲しいという思いは、なかなかうまく折り合いがつかない。自然を守るには、やたらと人を入れないほうがいいに決まっている。けれども、せっかくの自然の美しさをだれも見ることができないというのでは、そもそも「美しい自然」という言葉の意味が成り立たない。人が見るからこそ自然は美しいわけで、人が見なければ、自然はただの自然に過ぎない。

 そういうわけで、この問題の解決は永久にないだろうと思う。

 しかし、不思議でならないのは、小笠原が自然遺産に認定されたとたん、そこを訪れる人が急増したということだ。そもそも小笠原の固有種といったって、みんな地味な植物や動物で、鵜の目鷹の目で探して見なければいけないようなものではない。見たからといって、それほどの感動があるとも思えない。「へえ〜、この草はここにしかないんだあ。」といって感心するぐらいのもんだろう。それなら、別にわざわざ出かけて行って見なくてもいいんじゃないか。むしろ、テレビの鮮明な映像で見るほうがよっぽどいい。それなのに、なぜ出かけて行くのか。「私はこれを実際に見た。」ということを誰かに自慢したいのだろうか。あるいは自己満足したいのだろうか。

 「世界自然遺産の場所に来たということで、人生のいい記念になりました。」と桟橋でインタビューに答えている観光客がいた。ということは、この人は、何か有名な所に自分がいたということに特別の意義を見いだしているということなのだろうか。小笠原の固有種をこの目で確かめたいというやむにやまれぬ衝動にかられてきたのではなく、とにかく「有名な」「世界的な」場所にいる自分というものを確認したかったのだろうか。それなら、何も小笠原でなくても、東京スカイツリーでも、東京ディズニーシーでも、ミシュランからありがたく三つ星いただいた高級寿司店でも、なんでもいいわけだ。むしろ、そういう初めから観光目的の人工的な場所のほうが、「副作用」がなくていい。

 とにかく「世界的に有名な所」なら、出かけて行く。そして、自分も何か今までの自分とは違った、どこかしら「世界的な自分」になったような、生きてる価値が感じられるような気持ちになる。そういうことなのだろうか。まあ、たとえそうだとしても、何をどう考えようと個人の自由というもので、ぼくがケチをつける筋合いもないわけではあるのだが。

 別のご婦人が桟橋で言った。「この貴重な自然をずっと守っていってほしいですね。」それなら、まず、あんたが来ないことだね、とぼくは意地悪く呟いた。本気でそう思うなら、小笠原の人たちには申し訳ないが、まず余計な観光客を入れないことしかない。いくら靴の底を拭いたって、不心得者は必ずいる。ポケットから、種が落ちないとも限らない。人が来ないからこそ、自然は保全されるのだ。

 もっとも、人間は飽きっぽくて気まぐれな動物だから、やがて誰も小笠原になんか興味を持たなくなる日が来るに違いない。思えば「世界自然遺産」などということを考えた人間こそ、自然にとっては、はた迷惑な存在であろう。


Home | Index | Back | Next