76 「本場」考 

2012.6.17


 日本人と生まれて何が悲しいといって、何をやっても「本場」じゃないということだ。「本場」から見れば、日本人のやっていることなんて、どうしても滑稽にみえるものらしい。

 学生時代、森有正に心酔しながらも、どうしても心酔しきれなかったのは、彼の思想をたどっていくと、結局のところ「日本にいてはどうしようもない。」という結論になってしまうからだったように思う。やれパスカルだ、デカルトだ、ヴァレリーだと読みあさったところで、翻訳で読んでいる以上、ほんとうのところは分からない。たとえフランス語で読んだって、実際にフランスに行かなければ、しかもそこに何十年も住んでみなければ、やっぱりほんとうのところは分からない。それが森有正の本音だった。

 フランス料理にしても、本格的に取り組む人は、必ず「本場」に行って修業して、「本場」のお墨付きをもらわないことにはどうしようもない。そんなことの必要ないはずの日本料理のお店でさえ、ミシュランに星もらったとか言って大騒ぎしている。それどころか、高尾山なんて何の変哲もない山が、ミシュランの星をもらうと、押すな押すなの大盛況になってしまう。

 こんな状況を見ていると、ほんとに悲しい。

 日本が「本場」のものってあるのだろうかと、つらつら考えてみても、あまり思い浮かばない。「鮨」とか「富士山」とか、もちろんそんなものは出てくるけれども、なんだかたよりない。

 日本語があるじゃないかといっても、これがまたやっかいだ。日本語の出自はともかくとして、文字がまったく「本場もの」ではない。漢字は当然としても、ひらがなだって、漢字からきているわけだから、「本場もの」とはいえないわけである。

 先日、ある書道家のインタビューを読んでいたら、中国での長い勉学の経験をもっているその人は、中国から見れば、今の日本の書道界なんて「おかしくって」ならないそうである。今から40年も前のインタビューだから、事情は今はだいぶ違うのかもしれないが、まあ「本場」の立場からそういわれてしまうと、返す言葉がみつからない。寅さんじゃないが、「それをいっちゃあおしまいよ。」てなもんである。

 どうせ日本なんて「本場」じゃありえないんだから、「雑種」でいいじゃないかと言った加藤周一の居直りは、今でも有効なのかもしれない。しかし、「雑種」はしょせん「雑種」で、そこにどうしたって「純粋種」「本場」の影がつきまとう。「雑種」という概念は、「純粋種」の裏返しでしかない。居直るしかないのも分かるが、やっぱり、居直りは居直りでしかなく、居直ったヤクザが背中の入れ墨を消せないように、どこか胸を張れない悲しさがつきまとう。

 ここから抜け出すにはどうしたらいいのか。

 それが分かれば苦労はないということだが、たぶん「本場」という概念そのものを壊してしまうしかないのだろう。もちろん、フランス料理の本場はフランスであることに間違いはなく、その本場のフランスをぶっ壊すことなんてできるわけがない。そうではなく、自分の中で壊すのだ。「本場」を自分の外に置いて意識するかぎり、「本場」の呪縛から逃れることはできない。しかし、「本場」とは自分自身である、と考えればいい。

 自分が「本場」なのだから、もう怖いものはない。価値は自分が決める。ミシュランはいらない。「本場」に「行く」必要もない。

 もっとも、これはとても危険なことで、下手をすると、どうしようもない主観主義になってしまう。けれども、イギリス人以上にイギリス文学を理解しようとして猛勉強した夏目漱石が、その重圧でノイローゼになった果てに打ち出した「自己本位」とは、まさにこのことだったはずなのだ。


夏目漱石「私の個人主義」


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