74 「ああいい、さっぱりした。」 

2012.6.4


  中学1年生の国語の授業で、宮澤賢治の「オツベルと象」を読み始めた。

 授業の最初で、生徒を指名して音読させるか、教師が自分で読む(これを「範読」という)かは教材にもよるが、これはもう絶対に範読である。生徒に読ませると、声が小さくてよく聞き取れなかったり、読み間違えたり、その読み間違えに笑いが起きたり、 一編の小説を味わうには邪魔なことがいっぱい起きる。もちろん、それが邪魔ではなくて指導上有効なこともある。しかし、「オツベルと象」はとにかく範読なのである。

 国語の授業における範読は非常に重要なものだとぼくは思ってきたので、それなりに研鑽を積んできている。別にどこかに研修に行ったわけではないが、自覚的に練習してきたわけだ。だからまあ、そこらの若い教師とは一味違うぜ、ぐらいの自負はあるのである。

 まずぼくが素晴らしい朗読をタダでしてあげる。なんて君たちは幸せモノだろうねえ。だから、読み終わったら、だいたい25分あるから、今度は君たちが感想を書くのだよ。そう言うと、生徒は、アハハと笑って、だって授業料払ってるでしょ、なんて減らず口をたたいたあと、感想なんて嫌だあとゴネたりする。かまわず読み始める。

 「オツベルと象」は朗読するのにだいたい20分かかる。それを4クラスでやった。自負があるなんていうわりには、読み間違えも結構あって、完璧な出来ではなかったが、生徒は水を打ったようにシーンとして聞いてくれた。朗読の力だと言いたいところだが、やはり作品の力だ。

 4回も読むとさすがに疲れた。家に帰ってから、背中がいつも以上にパンパンに張っていたくらいだ。しかし、疲れはしたが、読めば読むほど、何ともいえない気分になるのだった。宮澤賢治の文章に流れている何ともいえない悲哀に圧倒されたのだ。

 「オツベルと象」は、読み方によっては、賢治の童話のなかでは、極めて活発で暴力的な作品だ。しかし、それにもかかわらず、作品全体を支配しているのは、どうしようもなく深い悲哀の感情なのだ。そう強く感じた。

 オツベルにこき使われている象が、「ああ、稼ぐのは愉快だねえ、さっぱりするねえ。」とか、「ああ、せいせいした。サンタマリア。」とか、「ああ、疲れたな、うれしいな、サンタマリア。」とか呟くのだが、こうした言葉が何ともいえない悲哀を内に秘めているのだ。ここを朗読で、どう読むかはとても難しい。ぼくは、なるべく力を抜いた声で、あまり感情を込めずに、そっと読んでみたのだが、その都度、賢治の悲しみが体の中を駆け抜けるように感じたのである。

 「さっぱりする」「せいせいした」──これらの言葉は、いやおうなく賢治の妹トシの言葉を思い出させる。死の床にあるトシの所へ、賢治が松の枝を持っていくと、トシはこう言うのだ。

 「ああいぃ さっぱりした。まるで林のながさ来たよだ。」(「松の針」)

 岩手の方言を実感的には知らないぼくには、この「さっぱりした」という言葉の語感がたぶん分かっていないのだろうが、それでも、十分に伝わってくるものがある。

 稼ぐこと、つまり働くことは「愉快」で「さっぱりする」ことだ、という賢治。そして、死の床で、松葉の匂いをかいで「さっぱりした」というトシ。「疲れたな」の後に「うれしいな」と続ける賢治。労働が、疲れを生むと同時に人間を「さっぱりした」気持ちにもさせる。そして、死ぬほど疲れても、うれしいと思う賢治。

 立派だかとか、偉大だとか、そういうことではない、ただただ打たれる。そして悲しい。


Home | Index | Back | Next