66 行為の輪郭、あるいは庭の思想

2012.4.15


 久しぶりに庭師に来てもらって、庭の改造を行っている。もともとは、家内の父が作らせた庭だが、庭というものは作ればそれで終わりというものではなくて、その後の手入れが欠かせない。理想的には、年に二度ぐらいは庭師に手入れをしてもらうのがいいのだろうが、そんなことをしていたら金がいくらあっても足りない。

 家内の父の手を離れて、ぼくら夫婦が庭の管理をすることになってからは、できるだけ自分たちで手入れをしてきた。植木の手入れから、草むしり、落ち葉の掃除など、そんなに広くない庭なのに結構大変だ。中でもいちばん大変なのは、初夏から秋までの草むしりで、これは家内がずいぶんとやってくれたが、とにかく腰は痛くなるし、蚊にはさされるしで、これからますます思いやられるなあと思っていた。

 落ち葉も限りなく落ちてくるから、とにかく葉が落ちる木は処分しようということで、せっかく庭師が計画を立てて植えた山モミジ2本を、チェーンソーまで買い込んで切り倒してしまった。そのあと庭師がたまたまやってきたのだが、その「惨状」に茫然としたことだろう。オレに何のことわりもなく、こんなことをしやがって、と思ったに違いないが、そんなことはおくびにも出さず、笑って許してくれた。

 その罪滅ぼしというわけでもないが、とにかく、庭の通路にあたる部分を草が絶対に生えないようにする工事をその庭師に頼んだのだ。といっても、コンクリートで固めるというわけではない。かたい土のようなものや、玉砂利を敷いたりするという工事で、これがなかなか細かい仕事である。

 ぼくはこういう職人仕事を見物するのが大好きなので、学校に行かない日は、ほとんど一日中その仕事を眺めて過ごした。雑然とした庭がだんだんと、まるで料亭の坪庭のように変身していく様は、感動的ですらあった。

 その過程で痛感したのは、余計な雑然としたものが整理され、処分されていくと、残された大事なものが、俄然生き生きとしてくるということだった。今まで、苔やら草やらが生えていた通路がきれいな土で固められてきれいになると、植木の植えてある土の部分が何の手入れもしていないのに、ぐんと存在感を増し、輝きだす。

 これはぼくらの日常生活でも同じではなかろうか。ぼくらの日常生活は、あまりに煩雑な出来事が多く、雑然としているために、何をしても、その行為が雑然とした日常の中に紛れてしまう。その行為が際立たない。行為の輪郭がぼやけてしまう。

 ぼくらの頭の中にも、ゴミのような雑念がいっぱい詰まっている。だから、たとえば夕日を見ても、その「夕日を見ている時間」が「至福」のものにならずに、雑念の中に紛れてしまう。まるでゴミの山の中に放置されたダイヤモンドのように。

 頭の中から、心の中から、ありとあらゆる欲望、嫉妬、怒り、不安といった雑念をすべて振り払うことができれば、きっと、どんなに些細な出来事でも、物事でも、くっきりと鮮やかな輪郭をもって輝くはずだ。わかっているのだけれど、それは至難のわざだ。

 せめて、美しく手入れされた庭をみて、その姿に学ぶことにしよう。


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