61 電子書籍はそんなにイケナイのか?

2012.3.22


 『脳を創る読書』の著者の酒井邦嘉のインタビュー記事「なぜ今、紙の本なのか」が「サンデー毎日」に載っていた。その本を読んでいるわけではないが、その発言にちょっと反論したい気分になった。

 酒井氏は脳科学者だそうで、電子書籍と紙の本の脳に与える影響に関して実験もしているというので、ちょっとした思いつきではないことは確かなのだろうが、それにしても、どうなんだろうと首をかしげたくなることが多いのだ。

 与えられる情報量が少ないと、人間の脳は想像力で補おうとします。例えば最も大衆的な情報伝達の方法に映画があります。役者の演技に加え背景、セット、音声まであるのでより分かりやすく手っ取り早く情報を伝えることができます。テレビも同じです。

 映画が最も大衆的な情報伝達の方法だ、手っ取り早く情報を伝えることができる、とは何とトンチンカンな人かと驚いてしまう。少なくとも、映画は手っ取り早く情報を伝えるために制作されているのではない。まあ、それは、酒井氏が映画をきちんと見たことがないのだろうということで許してやってもいい。別に映画を見る義務なんてないんだから。要するにここで酒井氏が言いたいのは、「与えられる情報量が少ないと、人間の脳は想像力で補おうとする。」だから、脳をきたえるためには、情報量が少ないほうがいいのだ、ということだろう。現に、こう続けている。

 『脳を創る読書』のキーワードの一つは想像力です。言葉で伝えられることには限りがありますが、それをどのくらい補って自分の内部に世界を構築できるかが読書の面白さです。

 それはそうだろう。何も脳科学者でなくとも、今まで何百万回もいろいろの人が繰り返し言ってきたことだ。だからテレビばかり見ているとバカになる、というような付帯意見も必ずついたものだ。

 ところが、だからテレビはダメなのだではなく、だから電子書籍はダメなのだと続くのだ。

 電子書籍は本の厚みや手触りといった個性が消えて画一的になりがちです。紙の本であれば、一冊の長編小説を読んでいるとき、「どの辺りを読んでいるか」と目星をつけたり、「まだたくさんページが残っているから二転三転あるかな」と想像力を働かせることができる。本の厚みが与える量的な感覚は読書にとって実は大切な要索なのですが、電子書籍の場合、そのような感覚はどうしても希薄になります。

 「どのあたりを読んでいるか分からない」というのは、電子書籍批判ではよく出てくることだが、ほんとうにこの人たちはまともに電子書籍を読んでみたことがあるのだろうか。今の電子書籍のビューワー(電子書籍をよむためのアプリケーション)は、ほとんど「全部で何ページある本の、何ページ目を読んでいるか」がすぐにわかる仕組みになっている。紙の本より正確に分かるほどだ。まあ、それも許すとして、たぶんここで肝心なのは、「本の厚み」「本の手触り」といった「感覚」が大事だということだろう。これは、確かに無視できない要素である。こうした本の与える感覚的な要素については次のように言っている。

 表紙の暑さや紙のクオリティー、持ったときの質感、装丁に至るまであらゆることに情報や情緒が込められる。著者にふさわしい装丁がなされ、読者が手に持ったときに内容にそぐわないという違和感を与えないようなデザインが求められています。つまり、フォントから印刷技術や紙、レイアウト、装丁といった全てが「紙の本」の見えない役者であり裏方なのです。そのようなものに支えられて一冊の本はできているのです。もし、ユニバーサルフォントで文字情報だけを電子書籍にしたとすれば、書かれたことがどのように伝わるのかは未知数です。少なくとも、想像力を掻き立てる要素は少なくなるでしょう。

 ここにも二つの重大な問題がある。そのひとつは、「著者にふさわしい装丁がなされ、読者が手に持ったときに内容にそぐわないという違和感を与えないようなデザインが求められています。」というところ。現実にそういうことが行われているのだろうが、よく考えると、これは「装丁者の解釈」が、「本の内容」に口出ししているということだ。「本の内容」は、読者によってずいぶんと異なって捉えられるものだ。それを、これはこういう本ですよ、と装丁者が勝手に決めていることになる。もちろん、著者の了解はあるわけだが、本当の読書(そんなものがあるかどうかも実は疑問だが)にとっては、装丁やら凝った文字組やらは邪魔なのだ。だからこそ、「永遠の古典」の収録をめざした岩波文庫は、画一的な装丁を採用したのだろう。

 さて、もうひとつのことは、本は、「言葉=内容」という情報だけではなく、それ以外の「情報や情緒」が込められている。それが電子書籍だと、想像力を掻き立てる要素──紙の本の持っているような情報や情緒──が少なくなるからよくない、という主張だ。

 矛盾している。

 テレビや映画は、言葉以外の音声・映像といった情報が多くて想像力を働かせる余地がないからダメだ。本の方がいいといっておきながら、電子書籍は、厚さ、質感、表紙のデザインといった情報量が少ないからダメだという。なんと粗雑な論理であろう。

 だいたい、映画が、音声や映像があるから想像力を働かせる余地がないなんてこと自体、とんでもないタワゴトである。「映像」「音声」がどれだけぼくらの想像力を掻き立ててきたか、少しでも映画に心ときめかせた人間なら分かるはずだ。老年の夫婦が静かに語り合うシーンで、背後にかすかに聞こえるコオロギの鳴き声が、どれだけ心に染みるか──脳に働きかけるか──考えたことがあるのだろうか。

 そんなに音声や映像が邪魔なら、紙の本の「厚さ」だって、「手触り」だって、「匂い」だって、邪魔なはずではないか。言葉が、そうした「情緒的」なものに邪魔されずに、言葉自体として丸裸で存在し、その言葉によって想像力で世界を構築するのが読書だとしたら、無機的な電子書籍こそ「最高の本」ではないのか。今の電子書籍のビューワーが苦心する「紙の本らしさ」など、むしろ未練たらしい。ただ、文字だけが、大きく(これは老人には特に大事)、くっきりと眼に入ること、それだけを電子書籍は目指したっていいのだ。

 想像力が働くのは、何も言葉だけによるのではない。ありとあらゆるものが、ぼくらの想像力を掻き立てる。そういう意味では、少なくとも、「想像力」の観点から電子書籍批判を展開するのは間違いである。

 想像力とは別のことで、酒井氏はこんな批判もしている。

 一方、電子書籍で読書している時に分からない言葉が出てきたら、そのまますぐにインターネットに接続して検索すれば膨大な情報にアクセスすることができます。読んでいる中で湧いた疑問をすぐに解消できる。これはとても便利なようですが、疑問について自分の頭で考える前に調べてしまい、分かった気になってしまう恐れがあります。ここでも読み手が想像力を駆使して補う過程が抜け落ちてしまうわけです。

 「分からない言葉が出てきたら、すぐに辞書で調べなさい。」とは国語の教師の口癖ではなかったか。けれども、面倒なので学生はなかなかそれが実行できない。しかし、今や、ほんとうに簡単に調べることができる。これのどこが悪いのか。確かに理想的には、何か疑問があったら、まず自分であれこれ考えて、そのうえで調べるというのが望ましい。けれども、実際には、分からないことがあっても、百科事典を調べに図書館に行くのも面倒だしなあということで、調べることもなく終わってしまうのが普通であろう。「面倒だから調べない。」より、「すぐ、調べてしまう。」ほうがマシではないか。

 まあ、そうは言っても、「疑問について自分の頭で考える前に調べてしまい、分かった気になってしまう恐れがあります。」というのは当たっていて、近ごろやたら「教えて」サイトに、自分で調べろよと思うような質問をし、また、ご丁寧にそれに答える閑人がいて、しかも、その答が粗雑だったり、間違っていたりするのに、質問したほうは、「よく、わかりました。どうもありがとうございました!」なんて言っているのをよく見かける。

 ネットで調べることは簡単だが、どれが正確な情報であるかを見分けるのは簡単ではない。そうしたことに対する教育こそ重要だが、電子書籍は、それとは関係ない。

 酒井氏は、電子書籍はサインができない、とも言っていた。

「いつどこで書いてもらったサインなのか」という思い出は何年経っても恐らく忘れません。こうした一つ一つの読書体験が脳を創る大切なプロセスなのです。

 「サインをもらうこと」が「読書体験」とは思わないが、まあ、言いたい気持ちはよく分かる。しかし、モンテーニュやパスカルのどんな愛読者だって、著者からサインをもらったなんていう現代人はひとりもいない。とすれば、著者のサインなんて、読書にとってはどうでもいいことなのである。

 ぼくの言いたいことはただひとつ。紙の本で読もうが、電子書籍で読もうが、モンテーニュの思想がそれによって違って受け取られることはない。漱石の「行人」を、復刻版で読もうが、古本屋で買った文庫本で読もうが、そこから受けとる感動に違いがあるわけではないのと同じである。とすれば、紙の本にこだわるのは、趣味以上のことではない。これに尽きる。


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