56 小国寡民

2012.2.24


 小さくて人民も少ない国が理想じゃ。様々な便利な道具はあってもそんなもんは使わせず、人民が自分の生命を国家とか正義とか、そういったわけもわからんものよりもずっと大事だと思い、遠くへ旅行しようとか、どこかもっといいところに住みたいなんて思わないないようにさせたら、たとえ舟や車があったとしても、それに乗ろうなんて思わないだろうし、よろいや武器があったとしても、軍事パレードなんかして、どうだこんなにオレたちは強いんだぞなんて誇示することもないじゃろう。
  人びとが、漢字なんて使うのをやめてしまい、縄を結んでそれを文字の代わりとして使うようにさせ、食べるものは何でもうまいと思い、どんな着物を着てもきれいだと思い、どんなボロ屋でもああいい家だと思ってそこに住み、日々の生活の中で、お祝い事とかお祭りとか、そういった何気ないことを心からを楽しむようにさせたなら、隣の国はすぐ向こうに見えていて、その鶏や犬のなき声も聞こえくるくらいに近くにあっても、人民は、お互い関心も持たず、まして隣の国を征服して自分の国にしてしまおうなんて思いもよらず、老いて死ぬまでたがいに往来することもないであろう。

 有名な老子の「小国寡民」の全文の勝手な意訳である。残り少なくなった漢文の授業で、これをやった。

 まあ、こういう国の形は、今の世界のどこを見渡したってないね。ブータンなんかが似てるのかもしれないけれど、実際行ってきたわけじゃないから何とも言えない。近代国家っていうのは、この逆だからね。富国強兵、帝国主義、植民地主義、みんな「大国多民」を目指してきたわけだ。最近では、日本の少子高齢化が問題になっていて、50年後には3千万人も人口が減るとかいって大騒ぎしているけど、老子にいわせれば、そんなの屁でもないってことになるよね。

 国家の理想として考えると、ここで言われているのは、非現実的な戯れ言にしか聞こえないだろうけど、個人の幸福ってことのレベルで考えると、つくづく考えさせられるよ。結局ここで言われているのは「知足」ということだよね。何て読むか知ってる? 「足を知る」じゃないよ。足なんて知ったってどうしょうもない。そう、「足るを知る」だね。「これでいいやって、満足しろ。」ってこと。試験で、70点だったら、「まあいいや。」って満足することだね。もっといい点とろうなんて頑張ることはないよってことだ。

 これに真っ向から対立するのが、我が校の経営母体であるイエズス会のモットーである「マジス(MAGIS)」だ。「マジス」というのは英語でいえば「MORE」ってことで、つまり「もっと、もっと」ってことだから、こりゃ「知足」どころじゃないやね。君たちはこれをたたき込まれてきたわけだけど、これは危険なモットーだぜ。

 もちろん、イエズス会の創立者たるイグナチオ・ロヨラは、純然たる宗教的な精神として「マジス」をモットーとしたわけだ。現状に満足することなく、より高い精神性へ、より深い宗教性へと人を導こうとしたわけだ。だからきちんとこの言葉を理解すればちっとも危険なことはない。

 でも、これが世俗化すると、「もっと金を!」「もっと速く!」「もっと便利に!」「もっといい大学へ!」「もっと高い地位へ!」「もっと美人の奥さんを!」って、もう果てしない「もっと、もっと!」になっちゃうよね。

 西欧の、そして日本の近代化っていうのは、この「もっと、もっと」でやってきて、その結果としての現在があるわけだ。これでいいのかってことだよ。欲望の生産こそが今のビジネスの基本だものね。次から次へと人々の欲望を刺激し、ほんとうは欲しくなかったものまで、欲しいという気にさせる。そういうビジネスにまんまと乗せられて、あれもこれもと買いあさっているオレなんて老子に言わせれば、グノコッチョウってことになるわけだ。

 ところで、この文章の中で、ぼくが特に注目したいのは「縄を結んでそれを文字の代わりとして使うようにさせる」ってことだな。これは、現代風に言えば、情報の遮断だね。縄文字じゃ、複雑なことなんて伝えられない。せいぜい、「死にそうだ、助けて。」とか「結婚してくれ。」とかそんなことだよ。縄文字なんかにしたら、試験なんてできないね。問題だって作れないし、縄の答案なんてどうやって採点していいかわかりゃしない。つまりいわゆる学問も学校もいらないってことだ。情報もいらない。明日は雨らしいって、雲を眺めて予想するぐらいでいい。まして30年以内に大地震が起こる確率は70パーセントですなんて情報は、人間を不幸にするだけだってことだよ。

 みんな笑っているけど、やっぱり「知足」という態度を身につけないかぎり、人間は本当に幸福にはなれないということを、どこかでちゃんと考えてみるべきじゃないかなあ。

 まあ、こんなことを、しっとりと授業で話したかった。だいたいは話せたが、話せなかったこともある。で、ちょっと、筆録風に書いてみた。


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