53 「必要」ということ

2012.2.4


 モノを買うということに関して、世の中にはどうも二種類の人間がいるらしい。

 一つは、「ある必要があって、その必要を満たすためにモノを買う人間」であり、もう一つは「とりあえず面白そうだからモノを買って、その後で使い道を考える人間」である。

 ワープロが普及し始めたころ、多くの大人たちは、これで何ができるのかと考え、どうやら年賀状を作るのに便利らしいということで買ったものの、結局うまく作れずにそのまま押し入れの中にしまってしまったという話をよく聞いた。そこまでいかなくても、とにかく「これで何ができるの?」ということをよく質問する人がいて、これもできます、あれもできますと説明しても、まあ、そのくらいなら何も何十万も出して買うまでのモノじゃないなあといってなかなか買おうとしない人も多かった。

 パソコンのときも、デジカメのときも、みんな同じだった。年なりに経験を積んだ大人は、何事にも慎重で、デジカメが出てきたときも、もう少したてばもっといいものが出るだろうから待つよといってやはりなかなか買わなかった。「デジカメなんて、それこそ生鮮生野菜だから、1年たったら買い換えるぐらいの気持ちじゃないとダメだよ。」といくら口を酸っぱくして言っても、「もっといいモノ」がでたらそれを買って、最低でも10年は使うなんて言うのだった。

 よく言われることだが、「欲望がモノを生み出す」のではなくて、「モノが欲望を生み出す」のだ。それが現代という時代の合い言葉である。この合い言葉に乗っかって、モノを買いあさる現代人は、決して無条件に褒められるべきではないが、かといって、消費資本主義に翻弄される大馬鹿者として一方的に弾劾されるべき筋合いもない。

 必要ということがもし一番大事なのだとしたら、いったいぼくらが生きていくうえで本当に必要なものなどどれくらいあるだろうか。とりあえず、生きていけるだけの食料と衣服と住まいがあれば十分だ。あとはなくてもいいものばかりである。テレビもパソコンもスマホも車も、なくても生きていける。

 それより何より、ぼくら自身が「必要」だろうか。ぼくらは、自分が世の中に必要な存在なのだと何となく信じているのかもしれないが、実は全然そんなことはない。例えば、ぼくがいなくても(ぼくが例では説得力に欠けるなら、総理大臣でも沖縄局長でも大阪市長でも、なんでもいい。)全然問題ないのだ。いや、いないほうがよほど世のため人のためなのかもしれない。

 つまり「必要だから買う」という傾向の人は、極端にいうと「自分はこの世に必要だから生きている」と考える人なのかもしれなくて、ちょっと考え直したほうがいいと思うのだ。どうしてかというと、そういう人はたとえば会社からある日「あなたはもう必要ないです。」って言われたときに、ものすごくショックを受けてしまって、どうしていいかわからなくなってしまう可能性があるからだ。

 ぼくなんかは、二種類の人間の中では完全に後者の方に属するから、「あなたはうちの学校には、ほんとうはもう必要ないのです。」とほぼ同じ内容のことを面と向かって言われたときも、ショックのショの字もなくて、「ほんとうは必要なくても、うそでも使ってもらえるならそれでいいです。どうせ、ぼくなんか、ずっと前から必要ない人間なんですから。」と心の中で言って、笑ってやり過ごすことができたのである。

 iPadを買ったときも、「とりあえず面白そうだから買った。」そして、その後でいろいろと使い道を試してきた。それが非常に楽しかった。電気自動車も「とりあえず面白そうだから買った。」そして、乗ってみていろいろ新しい発見と体験をしている。それがまたとても楽しい。

 それと同じで、ぼくは世の中に必要とされていようがいまいが、とりあえず、今、存在している。生きてしまっている。そういう自分が、いったい何ができるか、いろいろ試している。それが苦しいときも辛いときもあるが、いや、その方が多いといったほうがいいが、それでも結構楽しいこともある。それでいいんじゃないか、いや生きるということは結局そういうことなのではないかと思っている。


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