50 Yes to Life and Love

2012.1.20


 ずいぶん昔の本だが、イシドロ・リバスというスペイン人の神父の書いた『孤独を生き抜く』(講談社現代新書・1985年刊)という本がある。昔読んだときは、それほど深い印象があったわけではないが、最近読んでなるほどと感ずるところが多かった。

 「自己嫌悪」という言葉がある。これは日本人はごく日常的によく使う言葉だが、リバス神父にはそれが意外に思えたという。欧米では、あまり普段は使わない言葉だというのだ。

 たとえば、英語にSelf hartred(自分を憎む)という言葉はいちおうありますが、日本語よりずっと強い意味で、かなり病的な程度を示し、ほとんど使われません。日本語では、むしろ自分はたいしたものではなく、他人にも、自分にとっても、嫌で好かれるに値しないという情緒的ニュアンスがあると思います。

 とある。そして神父は、この「自己嫌悪」という言葉がごく普通に使われるということに、日本人の自己評価の低さを見ている。そうかもしれないなあ。しかし、それなら欧米の人間は、ノウテンキなだけじゃないか。「私は至らぬものでして。」「粗品ですが。」「私のようなものがこんなことを申し上げては何ですが。」などという枕詞をよく使う日本人は、謙遜の美徳を身につけているということだから、文句を言われるスジはないじゃないか、などとも思いつつ読んでいくと、こんな文章にぶつかった。

 根源的な罪とは何かというと、人間が一〜五歳の聞にとった一つの誤った態度の選択をさしています。つまり、子どもが叱られたり拒絶された結果、自分のありのままを出せば受け入れてもらえないと考えるように、愛してもらえないと決めつけて、自分の一部分を隠して、それを無いかのように押さえつけてしまうことです。英語でいうとNo to Life and Loveです。愛を断り、自分の生命の多くの可能性を無いかのように葬ってしまう決断です。その結果、自分の底知れぬバイタリティと、押さえられた上で出てくるわずかのエネルギーの間に大きなアンバランスが生じて、そのアンバランスからノイローゼや不安や未熟な自己弾劾も生まれます。
 結局、未熟な自己弾劾の根底にあるのは、人間の根源的な不信感と、愛されていることへの不信頼であり、ありのままの自分を賜物として素直に受け入れないことです。これは自分の心を根本的にとざすことですから、根源的な罪と言われています。
 ですから、人の救いは、愛と生命に対してイエスと言い、それを受け入れて心を開くことです。昔、自分が悪いと決めこんだように、今はその時の選択を選び直して、子どもの時からの自己弾劾が誤った選択からくるものだと認めて、これから愛の中に自分を全面的に生かす選択なのです。すなわちYes to Life and Loveです。

 キリスト教でいう「根源的な罪」とは何か? ともし聞かれたら、たぶんこれとは違うことを答える人が多いだろう。「貪欲」とか「裏切り」とか「怠惰」とか「エゴイズム」とか「性的な放縦」とか、まあそんなことが「罪」として頭に思い浮かぶのではなかろうか。日本ではキリスト教を、「戒律の厳しい宗教」というように捉える人も多いから、「罪」にもそんなイメージがあるだろう。

 けれども、ここで言われていることは、それとはまったく違う。「自分は愛されるに値しない人間なんだ。」と自分を決めつけて、他者の愛を拒絶することが「根源的な罪」なのだというのだ。そして、その「罪」を産み出すのが、親だともいう。いや、親だけではない、学校の教師もきっとそれに手を貸している。「こんなこともできないお前はダメなヤツだ。」と何度教師は口にしてきたことだろう。そして、素直な子どもであればあるほど、なるほど自分はダメな人間だと思ってしまう。そして、親や教師の期待に添うような人間になろうとする。けれども、それが子どもに深刻な「罪」を植え付ける。

 親にできることは、無条件に子どもを愛することだけだ。成績が悪くても、受験に失敗しても、なかなか就職できなくても、何の取り柄もなくても、病弱でも、障害があっても、とにかく「無条件」で、子どもを「全面的」に認めること、これができるのはまずは親だ。

 子どもは子どもで、親を選ぶことはできないのだから、どんな親にどんな育て方をされるかはそれこそ運命みたいなものだが、このことに気づいたら、「ありのままの自分を(神からの)賜物として素直に受け入れる」という「選択」を改めて自分自身ですることだ。そこに救いがある。

 リバス神父の言いたいことをぼくなりに言い換えれば、こんなことになる。しかし、これは簡単そうで難しい。実は「自己嫌悪」に「情緒的に」浸っているほうがずっと楽なのだ。けれども、そこにとどまるかぎり、リバス神父のいう「底知れぬバイタリティ」が生かされることはないだろうし、「愛を受け入れる」人間にもなれないだろう。

 「愛される」ためには、そして「愛する」ためには、まず自分自身を素直に肯定することができなければならないのだ。難しいことだが、やる価値はある。いややらねばならぬ。


 

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