49 「できること」と「できないこと」

2012.1.14


 近ごろは寒いので、朝はやく目が覚めても、ベッドから出る気になれない。学校がない日は、8時近くまでトイレも我慢してベッドにもぐり込んだまま、ラジオを聞いていることがある。うちの場合は、AMでまともに電波が入るのはニッポン放送だけだから、いつもニッポン放送を聞くことになる。悪くはないが、藤原和博なんかがゲストで出てくるとウンザリする。

 同じくゲストで出てくる日野原先生は、もう100歳を超えているから、文句をつけても仕方ないが、いろいろ言われても、元気でいいよなあという感想しか浮かばない。つい先日も、還暦は第二の成人式です、年をとったなんて言ってないで、どんどん新しいことを始めましょうなんて言っていた。先生は98歳のときに俳句を始めたそうである。そういう話を聞いて、そうだオレも老け込んでないで何かを始めようと思える人にとっては、まあ、参考になる話というか、励まされる話というか、そういった話になるのだろうから、講演会にも引っ張りだこということになるのだろう。

 しかし、還暦は第二の成人式です、って言われても、60歳は60歳で、20歳とは大違いだ。人にもよるだろうが、たいていは、60歳の人間と20歳の人間では、背負っているものがまるで違う。背負っているものが違えば、考えることも、行動も、まるで違ったものになるに決まっている。

 一昨日だったか、中学以来の同級生に、生きていくのも何だかめんどくせえなあ、って言ったら、まったくだ、もう嫌だ! と吐き捨てるように言った。こういう我々のような人種にとっては、還暦は第二の成人式ですなんて言葉は、なんの意味もない世迷い言でしかない。どうぞ勝手にやってくださいとしか応接のしようがない。

 自分の好きなことをやっていてもめんどくさくなることがある。まして、雨霰のように降り注ぐ浮き世の義理とか、俗世の諸雑事とかは、めんどくさいこと限りない。20歳のころには、そんなものはどこにもなかった。いや、あったのだろうが、気がつかなかった。それでも生きていけた。

 ぼくと同い年の哲学者の鷲田清一は、次のようなことを言っている。

 できないことを「できる」ことの埋め合わせるべき欠如と考えるのではなく、「できない」ことそのことの意味を考え、そこからあえて言えば、「できなくなることでできるようになること」というか、かならずしも「できる」ことをめざさない、そういう生のあり方をこそ考えねばならないであろう。

 哲学者らしいややこしい文章だが、言っていることは単純で、例えば歩行が困難になった老人は、「何とか歩けるようになろう」とばかり考えるのではなく(もちろん、そう考えて、リハビリに努力して、実際に歩けるようになるならそれに越したことはないだろうが、それが難しかったらということだ。)、「歩けなくなったことで、何ができるようになったか。」を考えたらどうかということなのだ。

 「できない」ことは「困った欠如」なのではなく、一つの独立した価値だということでもある。

 日野原先生は、「できる」ことに価値を置きすぎる。それは先生が、幸いにも健康に恵まれ(子どものころは大変病弱だったとのことだが)、しかも才能にも仕事にも恵まれ、俗世の憂いもそれほど多くないという境遇にあればこそ、「できる」ことに目がいくわけだろう。

 しかし、100歳越えて現役の医者なんていう日野原先生は例外中の例外である。そんな例外的な人にならって、何も無理して新しいことを始めることはない。まったくめんどくせえなあとため息ついて、それでもまあ面白いこともないわけじゃないしな、ぐらいのところで折り合いをつけて、死ぬまでの日々をやり過ごしてゆくのもひとつの立派な(かどうかしらないが。そもそも「立派」である必要がどこにあるのか。)生き方ではないだろうか。


*「わかりやすいはわかりにくい?」筑摩新書


 

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