48 2倍楽しい?

2012.1.8


 テレビを見ていたら、50歳代半ばで早期退職し、5000万円ほどの金を運用した利息を生活費として、シンガポールで暮らしているという夫婦が出てきた。結構大きなマンションを借りても、家賃が65000円ほど。物価も安いので月々の生活費が家賃を込みでも25万円で足りるという。もちろん、働くこともなく、週に4〜5回はマンションの目の前のゴルフ場で夫婦でゴルフ三昧。男が言うには、「それほど贅沢はしませんが、節約もしません。同じ金で、こちらは日本より2倍楽しい生活ができます。」

 まあ、そうだろうなあ。金があってめんどくさいシガラミがなければ、こういう外国の生活も悪くはない。しかし「2倍楽しい生活」っていうのがひっかかる。つまり、例えば、月々25万円あれば、日本でいえば50万円あるのと同じだから、楽しみが2倍に増える、ということだろう。しかし「楽しい生活」っていうのは、そういうもんだろうか。

 楽しみは金に比例するのだろうか。こういうことを言う人の楽しみというのは、ゴルフだったり、エステだったり、パーティだったり、つまり金のかかる楽しみなのだろう。月に1回しかゴルフができない人より、月に2回できる人の方が「2倍楽しい」ということでしかない。じゃあ、月に30回できる人は、月1回しかできない人の30倍楽しいかというと、そんなことはないだろうと思う。むしろ、月1回しかできない人のほうが、楽しみは大きいのではなかろうか。

 貧乏生活の長かった水木しげるが、「ゲゲゲの女房」の放映のあとのインタビューで、今は幸せですかと聞かれて、まあ、あんまりしあわせじゃないなあ、いくら金があったって饅頭が10コも食えるわけじゃないしなあ、なんて言っていたのを思い出す。

 楽しみは「量」じゃないということだろう。「量」だったら、2倍とか3倍とか言えるが、饅頭を1コ食う楽しみより、10コ食うほうが10倍楽しいということはない。むしろ10コ目は苦痛になってしまう。

 当たり前のことだが、楽しみは「質」である。しかしこの「質」も、いわゆる「品質」などとは違う。質のいいカシミアは質の悪いカシミアより必ず高い。何事も金に換算されてしまうと、品がなくなる。金に換算されるということは、ソノモノの価値が、ソノモノ自体に属する価値とされてしまうということだ。

 ここに、一個100円の饅頭があるとする。これはその饅頭が100円の価値があるということだが、その饅頭のうまさは、それを食べる人によって大幅に異なる。つまり、その饅頭の本当の価値──これを「質」といいたいところだが──は、食べる人によって決定される、あるいは食べる人の側にある、ということだ。

 こんなことはわかりきったことなのだが、近ごろは人間に品がなくなっているから、つまり自分の好みとか生き方に自信がなくなっているから、金に換算してでなければものの価値を語れなくなってしまっているのだ。

 くだんの、シンガポールの御仁も、余計なウンチクをたれずに、黙ってゴルフでもしていればよかったのだ。


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