46 年末所感

2011.12.29


 今年はほんとに大変だった。と書けば、年末所感も終わりである。どう大変だったかを書くと、終わりそうもない。

 震災と原発のことは、もう年末のテレビでいやというほど繰り返されているから、書きたくない。

 個人的なことだけを書く。今年は、長く続いてきた三つのことが終わった年だった。

 一つ目。22歳以来、飽きることなく、いや飽きながらも続けてきた教職を定年となり、去年までは、それでも再雇用で週5日の勤務を続けてきたが、今年の4月から週3日の非常勤の講師となった。まだ教師を辞めたわけではないが、今までとはまったく違う気分だ。授業をやっているだけの講師と、担任をしたり、会議に出たり、引率をしたりといった専任の教師とでは仕事の内容がまったく異なる。

 二つ目。隣の家がようやく建て替えとなり、我が家の庭に降り注ぎ続けた落ち葉やら、我が家の庭に芽を出し続けてきた竹やらから、やっと解放された。隣家にはそれなりの事情があったことだろうから、あまりきついことは言えなかったが、それでも、何とかならないものかなあとず〜っと思い続けてきたことが、こんなにあっさりと解決するとは思いもよらなかった。めでたいことである。

 三つ目。長い闘病を続けていた家内の父が亡くなった。医学生の時代に腎臓結核で片方の腎臓を切除し、ぼくらが結婚して間もなくのころ、胃潰瘍で胃のほとんどを切除し、今から十数年前には、膀胱ガンで膀胱を切除、その数年後には胆嚢を切除、そのうえ、パーキンソン病を発病、5〜6年前だったか一時は敗血症で多臓器不全で今夜が峠ですと言われたにもかかわらず見事に回復したが、その後も肺炎や腸閉塞などで入退院を繰り返していたが、だんだん歩行も困難になったので、4年ほど前に我が家で同居を始め、妻と娘(ぼくの妻)の献身的な介護を受けた。しかし、それにも限界があり、一昨年の暮れに、病院の療養病棟に入った。そして今年の10月6日に亡くなった。

 病歴を聞くと、一生病人で、元気なく過ごしたのかと思われるかもしれないが、さにあらず、我が家に引き取られるまでは、極めて元気で、医者の仕事も70歳ごろまで精力的に続けたし、ゴルフに凝り、囲碁に凝り、60歳を過ぎてからはひたすら風景写真に凝って全国を飛び回った。随筆も達者で、随筆集は4冊、写真集も1冊出版している。

 多病でありながら、けっして悲観せずに、明るく懸命に生きた。多病だっただけではない。息子(家内の兄)を44歳という若さで亡くすという不幸もあった。それでも、めげなかった。めげなかった、などと書くのは簡単だが、それがどれほどの苦しみと悲しみだったかは、おそらく当人しかわかるまい。ぼくはただそれを見ているしかなかったが、その悲しみの中から立ち上がってその後の人生を生き抜いた義父を、ただ偉いとしか表現するすべはない。

 ぼくの父も、多くの困難の中を生き抜いた人だった。父にとっては、シベリア抑留というとんでもない苦難を若い時に味わわされたわけだが、それでも、そこから生還して、戦後を生きてきた。

 そう考えてくると、ぼくなどは、何の苦労も知らずに、ただベンベンと馬齢を重ねてきたような気がして、情けなくなる。しかし、この二人の父は常にぼくの行く道を照らしてくれるような気がする。


Home | Index | Back | Next