45 終わってゆくのか生活は……

2011.12.23


いまはただ、終わってゆく生活の細かな実感のみを、書く。 (南木佳士「からだのままに」)

 ぼくの生活は、まだ「終わってゆく」という切実な実感をともなっているわけではないが、それに近いものがあることは確かだ。南木佳士はぼくよりも2歳年下だが、医者という因果な仕事のせいか、ぼくよりも少しだけその実感が強いのだろう。ぼくの方は、中学・高校の教師という、これもまた別の意味で因果な仕事のせいで、南木佳士より少しだけ、気持ちが若い。しかし、それこそ五十歩百歩で、いずれ「終わってゆく」ことに何の変わりもありはしない。

 それならば、ぼくも「生活の細かな実感のみを、書く。」と、かっこよく言い切りたいものだ。というよりも、近ごろ書いていることは、結局のところ「生活の細かな実感」以外の何ものでもない。南木の本を読んでいて、ふとこの言葉に目がとまったのも、共感ゆえだったということだろうか。

 終わってゆくにせよ、始まったばかりにせよ、生活の細かな実感以外に、何を書くというのだろうか。若い頃なら、将来の夢だろうか。恋の妄想だろうか。しかし、夢も妄想も、生活の細かな実感ほどには面白くない。どんなに非現実的な小説でも、そこに細かな生活の実感が雲母のように紛れ込んでいてこそ、面白いものだ。隅から隅まで現実からかけ離れた世界では、かえって息苦しい。

 そうだ、息苦しいのだ。バーチャルなゲームがどうも苦手なのは、その世界の完璧なまでの虚構性に原因がありそうだ。CGの美女は、おそらく完璧な美女だろうが、やはり息苦しい。おでこが広すぎるとか、上唇が薄すぎるとか、変なところにホクロがあるとか、そういった「欠点」は、顔の風通しをよくする。そのスキマから、同じ人間としての共感が生まれる。

 アメリカのスペースシャトルの帰還はどこか完璧すぎて、あれで宇宙から帰ってきたの? という新鮮な驚きがすでにない。出発のロケットはいつ見ても、あんなに火をふいて大丈夫なのか? といった不安を伴った一種の感動があるのに。

 それに比べて、ロシアのソユーズの帰還のあの何とも言えないブザマさは、小学生のころに読んだマンガに出てきた場面のような錯覚すら覚えて、むしろ感動的だ。あの鉄の塊みたいな物体の中から、ぞろぞろ3人も出てきて、ニコニコ笑っている(古川さんだけか?)なんて、マンガだってああは描けなかったはずだ。あれこそ、宇宙からの帰還にふさわしい姿だ。

 まあ、そんなこんなで、なんやかやと、細かな生活の実感を書いているうちに、日めくりの暦を猛スピードでパラパラとめくっていくような感じで、日々がちっともしっかりとした手応えもなく過ぎてゆき、あっという間に年末となった。こんなに1年がはやく過ぎ去ってしまうということは、ぼくの生活が「終わってゆく生活」であることの何よりの証拠だということになるのだろうか。

 そうであればなおさらのこと、いまはただ、終わってゆく生活の細かな実感のみを、ぼくも、書く。


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