43 沖縄時間なんて大嫌い

2011.12.12


 科学技術の発達が人間を幸福にするわけではないと強く思っているし、昨今の原発問題などを考えれば、やはり原発などを作ってきたのは大きな間違いだったと痛感しているのだが、一方で、科学技術の恩恵をこれほどたっぷりと享受してきた人間もいないだろうと思うくらい、新しいモノには次から次へと飛びついてきた。根っからの近代人なのだろうと思う。

 時計というものが、重要なものとなったのは、まさに近代文明の特徴なのだそうで、何よりも工場勤務において、時間を正確に守ることが生産効率の上から欠くべからざるものとなったからだという。農業ならば、日が出たら働きはじめ、日が沈んだら家に帰るということで済んだだろうが、工場となるとそういうわけにはいかない。労働者が三々五々集まってくるようでは、ベルトコンベアーも動かせない。

 鉄道の発達がそれに拍車をかけた。時刻表のない鉄道なんて、ものの役にもたたないからだ。昔は、バスなんかは、時間が正確なんてことはあり得ないから、時刻表を見ながらも、あてにはせずに待っていたものだが、今では、都心などでは、到着まであと何分です、みたいな表示が出るらしい。ぼくのよく乗る住宅循環バスなどは、始発というせいもあるが、出発は秒まで正確だ。電波時計を設置しているらしい。

 こういうことを書くと、いやはやセチガライ世の中になったものだ、むかしはのんびりしていていてよかったというモードに入り、はては、沖縄では沖縄時間というのがあって、宴会でも開始時刻に来る人なんて稀だそうだ、何とものどかでいいトコロではないか、などと書くのではないかと勘違いされそうだが、ぼくは、沖縄時間などというものは大嫌いなのである。

 もちろん、沖縄の人が沖縄時間で暮らしていることはまことに慶賀の至りで、何の文句もない。けれども、テレビ番組などで、芸能人などがやたら都会暮らしのセワシナサを嘆き、沖縄時間への憧れを語ると、腹が立ってくるというだけのことだ。

 ぼくは、とにかく時間に正確というのが性に合っている。だから、循環バスが始発駅をたとえば、17時02分00秒で出発したりすると、もうそれだけで嬉しくなってしまう。エライ! さすがプロ! とかけ声のひとつもかけたくなる。

 逆に、友人などとの待ち合わせで、約束の時間に1分でも遅れてきたヤツには、ちょっと腹がたつ。もちろん温厚を旨とするぼくは、何で遅れて来たんだなどと詰問することはないし、そのことをいつまでも根に持つということもない。だから、「全然気にしてない」というふうに見えるだろうし、現実としても「気にしてない」のである。

 しかし、約束してもその時間に行かなくてもいいんだとは絶対に思わない。少なくとも、ぼくは時間を守ることを自分への至上命令としている。それはもう強迫的といっていいほどで、つくづく近代人の悲哀を感じもするのである。もっと、ルーズに、いいかげんに、時計などに縛られずにのんびり生きたいものだとは思うものの、どうにもそれができない。

 唯一の例外は授業で、これはめったに始業時刻ぴったりに教室に入るなどということはない。たいていは遅れて行く。これはぼくが授業嫌いだからなのかもしれないが、その分(?)、終業は職人芸的にぴったりである。終業のチャイムが鳴る前に終わるということはあっても、鳴った後も授業を続けるということはめったにない。それは、授業が嫌だから長引かせないということでは絶対にない。(授業中は授業好きなのである。)そうではなくて、生徒の権利である(はずだ)休み時間という楽しい時間を1分たりとも奪いたくないという気持ちから出ているのだ。まあ、そう言っても、誰も信じてくれないだろうが、本当のことである。


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