41 お骨と大雨と土讃線

2011.11.26


 「サンライズ瀬戸」は、西に行くにつれて激しくなる雨の中をひた走った。ぼくの乗ったシングル個室は、先頭車両の一番前にあり、運転席の真後ろにあたる。まるで弾道ミサイルの先端にいるような気分で、ちょっと恐ろしかった。家内とその母のツイン個室は前から4両目なので安心、というのも変だが、やっぱり一番前はこわい。まあ考えようによっては、ぼくが夜を切り裂いているようでかっこいいともいえなくもないが。ぼくの枕元には、義父のお骨が眠っている。

 岡山には11月19日、朝の6時27分に定時到着。そこから特急南風1号に乗る。これも岡山7時8分、定時発車。ここまでは、まことに順調だった。しかし、持参したiPadで気象庁のホームページを見ると、九州、四国ではとんでもない大雨となっている。ところによっては1時間に50ミリを越える場所もある。これが気がかりだった。なにしろ、土讃線は雨に弱い。土砂崩れも多い。そのうえ、電化もされておらず、そのうえ単線である。はやく四国山中を通過して欲しいと祈るような気持ちでいたが、瀬戸大橋を渡るころには雨は激しさを増し、橋の上からも瀬戸内海の島々のぼんやりした影がうっすらと見えるばかり。

 そのうち電車は大歩危小歩危にさしかかった。険しい峡谷で、天気がよければ絶景である。しかし雨はもう土砂降り。車内放送が流れ、大雨のために30キロの徐行運転となりますという。まあ、徐行運転ならいいや、乗ってればいずれ着くわけだからと思っているうちに、繁藤という駅でとうとう停車してしまった。ここは特急の停車駅ではない。電車の窓には大きな雨粒が叩きつけている。iPadでは、まさにピンポイントでここらあたりにものすごい雨が降っていることが確認された。でも予測ではあと1時間もすればその雨雲も晴れそうな気配だった。

 繁藤駅で止まってから1時間を越えた。高知到着予定時間は9時38分だが、その時間をとおに過ぎている。しかし雨もようやく小降りになってきた。そろそろ運転再開かなあと思っていたら、甘かった。無情にも「雨量計が基準値を超えましたので、この電車の運行はここで打ち切ります。救援のバスが来ますので、お客様は駅の待合室へ移動してください。」とのアナウンスが入った。

 え〜っ! 冗談じゃないよ。参ったなあ。こっちは、お骨を抱え、足もとのおぼつかない年寄りを連れているんだぜ、と文句の一つも言いたい気分だったが、言ってみても始まらない。これを古文では「言うかたなし」「言うかひなし」などという。つまりは「どうしようもない。」ということである。降りろと言われれば降りねばならぬ。しかし、降り口は後ろの方の車両。ぼくらが乗っていたのは先頭車両のグリーン車だ。肩から下げたお骨入りのバッグはゴロゴロして重いわ、おばあちゃんは杖ついてゆっくりしか歩けないわで、とうとう最後になってしまった。ホームに降りたころには、また雨が激しく叩きつけ、屋根もない跨線橋をおばあちゃんに傘をさしかけ、お骨をかかえ、家内はクソ重いカートをひきずり、お互いに、なんでこんな目にあわなきゃいかんのだという愚痴も言う気にもならず、とにかく反対側のホームへと降り立った。

 さて、すぐにでもバスに乗れるのかと思ったら、まだバスは来ていないという。なんだ、バスが来てから降ろせばいいじゃないかという文句のひとつも思いつかず、かといって待合室は、いったいこのガラガラの電車のどこから出てきたのかという人の数で、中に入れない。しょうがないから、ホームのベンチに座って待った。気温が高く、ちっとも寒くないのがせめてもの救いだった。

 30分も待っただろうか。バスが来た。激しい雨の中を、待合室にいる人から乗っていく。この1台のバスに全員乗れるのかなあという不安はあったが、この50人ほどの人数を駅員だか乗務員だか知らないが、責任者がちゃんと人数を把握したうえで1台を呼んだのだろうから、きっと乗れるのだろうと思って並んでいると、最後に待合室に残ったぼくら3人とあと二人連れの男女の計5人に向かって、乗れるのはあと2人です、と車掌が言う。残りはどうするんですかと聞くと、タクシーを手配しますという。あと2人という以上、ぼくらが残るしかないわけだし、タクシーで行けるなら、おばあちゃんもかえって楽かもしれないという気持ちもあって、こころよくカップルを乗せた。バスは出発した。繁藤の駅に残ったのは、ぼくら3人と、電車の車掌1人と、駅員のオジサンだけとなった。

 さて手配してあるタクシーはいつ来るのかと思って待っていると、驚愕の光景が目に入ってきた。何と駅員のオジサンが、駅舎の前の電話ボックスの中で、懸命にタウンページをめくっているのだ。とっくに手配済みのタクシーだと思っていたのに、これから手配するつもりなのだ。しかも、手には携帯電話をもっているのに、このオジサンったらもう、タクシー会社の電話を登録してないのだ。

 この時、はじめて、しまったと思った。何で無理してもあのバスに乗ってしまわなかったのだろう。補助席は使わないからあと2人だと車掌は言っていたが、それを使えば2人ぐらい楽に乗れた。しかも乗ってしまえば高知駅まで1時間もかからないのだ。ああ、乗ればよかった。タクシーなんかに期待したオレがバカだった。しかし、あの乗客たちも薄情なもんだ。乗客の中で、杖ついた老人なんてうちのおばあちゃんだけだったのに、何で「お先にどうぞ」と言わないんだ。少なくとも、車掌は気をつかって、この人たちを先に乗せてくださいと言うべきじゃなかったのか。タイタニックだって、先にボートに乗ったのは老人や女性や子どもだったじゃないか、などとブツブツ言うと、家内は人間なんてそんなもんよ、そんなことには気づかないのよ、とウンザリした顔で言う。

 ところで、まだ説明していなかったが、この繁藤という所は、四国の山中であり、何十年か前大きな土砂崩れがあって、何十人という人間が死んでいるのだ。その土砂崩れで土讃線ももちろん不通となったのだ。(実は、この後、家に帰ってからこの繁藤での災害についてネットで調べて、思わず背筋が冷たくなった。〈こちらをどうぞ〉このことを知っていたら、ぼくはもっと恐怖にかられていたことだろう。しかし、家内はこの災害については前からよく知っていた。知っているどころか一種の体験者なのだ。彼女の祖父が危篤となったとき、家内の父、つまり今はお骨となっている義父は、妻、つまり今杖をついてぼくらとともにいる義母とともに急遽高知へ飛行機で向かったのだが、それがちょうどこの災害が起きた日で、飛行機は高知空港には降りられずに松山に降りてしまい、その松山からタクシーを飛ばして高知に行ったのだ。家内の方は、祖父が亡くなった後に親戚の者と高知へ行ったのだが、まだ土讃線は不通なので、やはり松山まで列車で行ってそこからタクシーで高知まで行ったのだという。まだぼくらが結婚する前のことではあるが、何かというとこの時のことを義父も義母も「あの時は大変だった。」と語ったので、そのことはぼくもよく知っていたのだが、その災害の現場がこのまさにぼくらが置いてけぼりを食わされたこの繁藤だということまではその時は知らなかったのだ。)

 山中の駅前には、人家が数軒しかない。その数軒もシャッター閉めて、人がいるのだかいないのだか分からない家もある。あとは駅前を国道が通っているだけで、上も下も山また山。こんな山の中のタクシー会社って、いったいどこにあるのだ。どこからタクシーを呼ぶというのか。

 オジサンは、ようやく連絡がついたと見えて電話ボックスから出てきた。「この上の大杉というところにタクシー会社があるきに、すぐに来るき。すんません。」てな高知弁(不正確です。)で顔をくしゃくしゃにしてしゃべるオジサンは、どうみても駅員とは思えない。残留した車掌に聞くと、ここ繁藤は無人駅で、このオジサンは、いちおうJRの職員には違いないが、この駅の清掃などの仕事をしているとのことだった。それならしょうがないかとも思ったが、それにしても要領を得ないオジサンである。10分ほどで来るといったタクシーもちっとも来ない。そのうちオジサンの携帯が鳴った。思わずドキッとする。嫌な予感。「え〜! そうかい。それじゃあ、どうするやあ。困るぜよ。」とか言っている。どうしたのかと聞くと、大杉と繁藤の間の国道が規制がかかって通れなくなったから来られないのだという。じゃあ、ぼくたちはいったいどうなるんでしょうか? って車掌に聞くと、困りましたねえ、ぼくもこれから次の電車の乗務があるんですよ、と困惑気味。

 この車掌は、ぼくらより10歳ほど下だということだったが、電車がストップしたとき、車内で怖い女性から30分も文句を言われて大変だったと愚痴っていた。「天気のことはどうしようもないんですよ。台風なら皆さん、気にかけてくれるのですが、低気圧だとねえ。でも大雨ということは分かっているんですから、もう一本前の特急に乗られたら間に合ったんですけどねえ。何しろ、この駅は昔『天坪』(ぼくはその言葉を聞いて『雨壺』という文字をイメージした。)と言って、雨のいちばん多いところなんです。土砂崩れも多いので、万一を考えると電車を動かせないんですよ。」と言いながら、しきりに時間を気にして携帯で高知駅と連絡をとっている。こっちの人のほうがわけの分からないオジサンよりよっぽど信頼できそうだ。どうしてこの人が直接タクシー会社と交渉しないのかとも思ったが、やはり地元のことは分からないのだろう。

 そのうち、オジサンはタクシー会社と連絡して、高知駅に行っているタクシーが戻ってくるので、それに乗ってくれという。そのタクシーは、もう高知駅を出ているという。もう高知駅を出ているといっても、今、どの辺にいるのかと聞いても、あとどれくらい待てばいいのかと聞いても、もごもごした高知弁でしゃべるだけで、ちっとも要領を得ない。そのうちとうとう車掌も頭に来てしまって、「もうすぐ、もうすぐっていったって分からんじゃろが。後何分なのかをちゃんと聞け。」と語気を荒げた。オジサン、泣きそうになって、また電話。「今、リョーセキあたりにいるらしい。」と言う。「リョーセキ(領石)ってどこ?」ってぼくが聞くと、「大津の近く」と言う。大津といったら、これからぼくらが行って納骨をするその場所だ。じゃあ、あと1時間ぐらいかかるんじゃないの? って聞くと、いや20分ぐらいで来ます、なんて言う。もうイヤ! もう誰も信じられない!

 あまりのことに、いつもは冷静な家内もここへ来て頭をかかえ、「もうこれで精魂使い果たした!」なんて口走っている。おばあちゃんは、案外落ち着いたもので、ベンチに横になって寝ている。

 もし、これで下からの道路も規制がかかって、タクシーが来なかったら、いったいこの山中でどうするんだろう。あのシャッターがしまった家に頼み込んで、一晩泊めてもらことになるのだろうか。しかもお骨をかかえて。高知市内に住んでいる家内の兄嫁に車で迎えに来てもらうという手もあるが、それでも道路が規制されていたらここまで来られないだろうし。そんなことを考えるといてもたってもいられなくなり、家内もぼくも、それこそもう鶴もびっくりして腰抜かすほど首を長くして駅舎の前でひたすらやってくるタクシーを待った。

 座って待っていてくださいと言う車掌さんに「そんな気にはなれませんよ。」という家内の語調からはギリギリ怒りをこらえているのがよくわかった。30分も車掌をいじめる女性に比べると、まことに立派な女性である。件の女性は会議かなんかに遅れるということだったらしいが、こっちは父親の納骨だ。しかも骨はここにある。しかも約束の納骨の時間はとっくに過ぎてしまっているのだ。これを怒らずにいられようか。それでも車掌さんにもオジサンにも一言も文句を言わない。エライものだ。ぼくも言わない。ぼくもついでにエライ。

 バスが出て行ってから、1時間以上もたっただろうか、やっとタクシーがやってきた。これが何と真っ白な新車のプリウスである。このギャップにも驚いた。おー、かっこいいっと思わず呟いてしまったほどだ。お姫様を助けに颯爽と現れた白馬の王子様のように思えた。

 乗ってみると、運転手は、カンカン帽みたいな形の帽子をかぶっていて、こんな山奥のタクシー会社(失礼!)には不釣り合いなほどオシャレだ。プリウスも快調に大雨の山道をくだって行く。車掌は、もう次の列車の乗務はきっと代わりをたててくれているだろうから、今夜は家に帰って一杯飲んで寝るよなどと、上機嫌で運転手と話している。結果的には、やはりバスよりタクシーのほうがよかったねなどと家内と話しながら、これ以上はもう悪いことは起こらないだろうと確信した。

 そしてその確信のとおり、タクシーは1時ごろ、高知駅に無事到着した。特急料金と、グリーン料金と、繁藤から高知までの運賃の全額約15000円が払い戻された。これもちょっと嬉しかった。しかし、払い戻しの窓口で別れた車掌は「代わってくれていませんでした。こらからまた乗ります。」と言い残し、がっくり肩を落としてホームに向かっていった。

 義父の49日の法要と、納骨は、11時の予定だったが、3時に変更してもらい、無事済ますことができた。そのころには、高知には美しい青空が広がっていた。


Home | Index | Back | Next