35 毛筆の手紙

2011.10.11


 先日の書展に来てくださった知人が、お菓子と一緒に毛筆用の封筒と便箋セットをプレゼントしてくださった。会場ではお会いできなかったのだが、受付に預けられていたのだ。

 もちろん、毛筆の手紙などこの世に生を受けて以来、一度として書いたことはない。今までだったら、結局そのプレゼントも机の引き出しにしまわれていつかしらどこかへいってしまうという運命を辿ったことだろうが、曲がりなりにも書道の展覧会に出品などしている身である。ここはひとつ筆で手紙をしたためてみようかという気になった。「ひとつやってみませんか?」という知人の誘いとも受け取れたからでもある。

 毛筆の手紙というと、流麗な草書で半分は読めないというのが通り相場で、過去の有名人の手紙などが『お宝鑑定団』などに出品されると、たいていは出品者も「何が書いてあるのか分かりません。」などと言うのが常である。昔の人は、そういう手紙でもスラスラ読めたのだろうか。もらった人の教養にもよるのだろうが、結構「読めない」という人も多かったのではなかろうか。読めない手紙じゃあしょうがないじゃないかと思うけれど、書く方としては、読めようが読めまいが、草書でスラスラ書いて得意になっていたのだろう。

 ぼくが筆で手紙をしたためると言ったって、草書がスラスラ書けるわけでもなし、行書だってあやしいものだ。それに、手紙は「読める」ことが第一条件だろうから、別にスラスラと書かなくてもいいわけだ。いわゆる仮名詩文を書くときの気分で、できるだけ丁寧に書けばいいということで書きはじめた。

 途中まで書いて、ああ、やっぱりダメだこりゃとため息ついた。筆で手紙なんて百年早いやと思いつつ、相変わらずの悪筆ですけどここは居直って書くことにしますなんて正直に心境を書いて、終わりまで書いてみた。開き直ってから後は、だんだん楽しくなってきた。パソコンでメールを打つことが圧倒的に多い昨今だが、和紙に墨がにじみこみ、言葉が綴られていくプロセスというのは、メールとはまったく違った味わいがある。手紙の味わいではない。行為そのものの味わいだ。

 学校の同僚で、古文書の研究をしている教師がいて、その方から毛筆の手紙をいただいたことがある。しかも巻紙である。その頃は、まだ書道を始めたばかりのころだったので、ただひたすら感心し感動したけれど、マネをしようなどとはさらさら思わなかった。マネなど到底不可能に思えた。学校で本人にどうしてあんなことができるのかと聞いたところ、古文書研究の仲間で、筆で手紙を書いて遊んでいるのだということだった。慣れてしまえば簡単なことで、なかなかおもしろいよと言っていたような気がするが、今になってなるほどねえと納得される。

 手紙を投函して数日後、やはり毛筆で書かれた返事がきた。私も実は筆で手紙を書くのは初めてですとあった。もともと達筆な方だが、余計に味わい深い手紙だった。何か、人生が少し豊かになった気がした。


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