29 プロの技

2011.9.10


 教師という職業は、教室で何かをしゃべっていればそれで金になるのだから楽なもんだと思っている人は案外多いものだ。もちろん、何かをしゃべるといったって、何でもいいわけではなくて、それぞれの専門分野に関することだから、それなりの「学識」なり「教養」なりが必要ではあろうけれど、何しろ相手が頑是無い子どものことだから、それが中学ぐらいまでなら、大学生に教えるよりはずっと楽なはずだと思う人は更に多いことだろう。しかも、授業参観でもないかぎり、授業の実態を生徒以外が見ることはなく、たとえば学校の事務職員の方からすれば、教師というのは、ほとんど遊んでいるようにしか見えないだろう。だから、どの学校でも、たいてい事務職員は「先生は楽で、それでいて我々より給料がいいんだからいいなあ。」と心の片隅で思っているものだ。現に都立高校時代、その種のことを露骨にいわれたことがある。

 しかし、傍目には楽に見える授業は、なかなかの修羅場であり、1回や2回の授業なら素人でも何とかやれるだろうが、1年を通してやるとなると、素人にはむずかしい。

 授業で何をやるかということ以前に、決められた時間に決められた教室にきちんと間違えなく行くという基本からしてそう簡単ではない。「時間割」というものがあるのだから、そんなこと簡単だろうというのは素人である。プロともなると、間違えるのである。プロというのは、素人と違って、同じことを飽きることなく(「内心は飽きていても無理矢理に」という意味デアル。)やる者のことをいうのであって、長い間、同じことを飽きることなくやっていれば、間違える確率は格段に高くなるというものだ。だからといって、パイロットが操縦室のボタンと翼操作のボタンを押し間違えて飛行機を急降下させてもいいということにはならないが、これが「教室へ行く」程度の、まあ、人の命にかかわらないレベルのことなら、プロたるもの、その間違えを恥じることはないのである。

 2学期の授業もようやく始まったが、2ヶ月近くも授業から遠ざかっていると、やはり何かとことがスムーズに運ばない。

 一昨日のことだが、2時間目の授業が終わって廊下に出たとき、なぜだか4時間目が終わった気分になってしまい、さて昼食だから購買部へジュースでも買いに行こうかと思った瞬間、廊下に行進曲が流れた。この行進曲というのは、世に名高い栄光学園の「中間体操」(2時間目と3時間目の間の15分間を、上半身裸でラジオ体操をするというもの。)のために鳴る音楽なのだが、ぼくは昼休みのつもりでいるものだから、一瞬、何で昼休みに中間体操をするんだ? と思った。約1秒後に勘違いに気づいたので、そのまま放送室に飛び込んで「何で昼休みにこんな音楽流すんだ。」と放送委員の生徒を怒鳴りつけて逆に失笑をかうという失態を演じなくて済んだのだった。

 やれやれまったく相変わらずのボケジジイだなあと思いながら、次の授業は昼休みの後の5時間目と6時間目だから、ちょっと休憩ということで、職員室で近くの席の教師と、空海の書について調子にのってしゃべっていたが、相手の教師が何だか眠そうなので、適当なところで話を切り上げ、ソファーで横にでもなろうと国語科研究室に行った。部屋には誰もいない。じゃあ、ソファーでひと眠りするかと思いつつ、まてよ、ほんとうにこの3時間目は空き時間なんだろうかという不安に襲われ、念のために壁に張ってある時間割を見た。すると、何と言うことか、3時間目も4時間目も、ぼくの授業が入っているではないか。3時間目が空き時間だなんていうのは、朝からのぼくの思い込みにすぎなかったのだ。時計を見ると3時間目はすでに10分以上経過している。しかし、それなら何故生徒が呼びにこないのか。チクショー、あいつら! 

 あわてて教室に行ってみると、意外なことに、みんな静かに自習している。「何やってんだ。どうして呼びに来ないんだ。」って言っても、ポカンとしている。「オレがどうなったと思ってたんだ。」と言ったら「心筋梗塞……」なんて言うヤツがいる。「呼びに行く勇気なんてないですよ。」と言うヤツもいる。まあ、生徒にしてみれば、先生の遅刻はありがたい自由時間だし、まして先生のお休みなんていったら、万歳しかねないわけだから、怒る気にもなれない。ふと黒板をみると、きちんとした字で「来るまで自習」と書いてある。こんなにきちんと書いてあったら、多くの生徒はぼくに何かやむを得ぬ事情があって、遅れるのだと思うだろう。だからみんな真面目に自習していたのかもしれない。

 しかし、呼びにも来ないで、そんなことをもっともらしく書くヤツが一番悪い。しかし、時間割を確かめもせず、ソファーで寝ようなんて思っていた教師はもっと悪い。

 で、10数分の遅れを取り戻すべく、ぼくはあらゆるテクニックを駆使して、内容的には前の授業となんら変わりのない授業を展開し、終業のベルと同時に授業を終えた。「すごい」という小さな声が聞こえた。これがプロだ。

 しかし、10数分少なくても内容的には同じだということは、50分フルの授業にいかに無駄が多いかを証明するものではないかという反論もあろう。それに対しては、無駄を混ぜるのもまたプロの技であると答えるしかない。


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