26 「秧鶏は飛ばずに全路を歩いて来る」

2011.8.23


 書展に出品した作品の出典について、先輩の知人から「伊東詩は、『早苗とるころ、くいなのたたくなど心ぼそからぬかは』(徒然草一九)の夏クイナではなく、別の冬クイナでOK(秧鶏)でしょうか。」というご質問があった。

 この詩には長年親しんできたが、クイナ(秧鶏)に、夏クイナと冬クイナの二種類があることはついぞ知らなかったので、あわてて調べたところ、クイナという鳥は、「ユーラシア大陸の亜寒帯以南に広く分布する。日本では北海道で繁殖するが、本州以南では冬鳥で、このためクイナを冬クイナ、夏鳥で同じクイナ科のヒクイナを夏クイナとよぶことがある。しかし、これはどちらも俗称で、動物学的なものではない。英名をwater railというように、水田、湿地、沼、川岸などの草むらの中にすみ、追われても遠くまで飛ばず、すぐ草むらに隠れ込む。」(日本大百科全書)ということで、つまり、俗に、クイナを冬クイナ、ヒクイナを夏クイナと呼び、両者は別種であることを知ったのである。

 さて、それでは、伊東静雄の詩のクイナはどちらなのかということになるが、これはそう簡単ではないのである。

 というのは、この「秧鶏は飛ばずに全路を歩いて来る」という言葉は、伊東のオリジナルではなく、チェーホフの手紙からの引用であることが分かっているのである。せっかくなので、なかなかお目にかかれないその手紙全文を引用してみる。

 三月六日 恐ろしく寒い。然し憐れな小鳥たちは既にロシヤに向って飛んで来る! 小鳥たちは郷愁と祖国への愛に駆られて来るのです。幾百万の小鳥が故郷を恋ひ慕うて生贄となり、幾らかの小鳥が途中で凍死し、どんな苦悶を彼等が三月及び四月上旬に故郷に帰着するために堪ヘ忍ぶかを詩人が知ったら、彼等は疾くにその讃歌を詠ったでせうに!……飛ばないで全路を歩いて来る秧鶏や、凍死を免れるため人間に身を委ねる雁の身になって御覧なさい……何とこの世の生活といふものは辛いものでせう!『チェホフ書簡集』(内山賢次訳)昭和4年・改造社刊

 ついでなので、伊東静雄の詩も引用する。

 秧鶏は飛ばずに全路を歩いて来る

秧鶏のゆく道の上に
匂ひのいい朝風は要(い)らない
レース雲もいらない

霧がためらつてゐるので
厨房(くりや)のやうに温(ぬ)くいことが知れた
栗の矮林を宿にした夜は
反落葉(そりおちば)にたまつた美しい露を
秧鶏はね酒にして呑んでしまふ

波のとほい 白つぽい湖辺で
そ処(こ)がいかにもアツト・ホームな雁と
道づれになるのを秧鶏は好かない
強ひるやうに哀れげな昔語は
ちぐはぐな相槌できくのは骨折れるので

まもなく秧鶏は僕の庭にくるだらう
そして この伝記作者を残して
来るときのやうに去るだらう

 こうして並べてみると、確かに、伊東はチェーホフの手紙をもとにして、この詩を書いていることがよく分かる。

 そして、そのことを踏まえて考えると、このクイナはロシアのクイナだから、いわゆる冬クイナであると考えられる。ロシアに別のクイナがいれば別だが、おそらく同種だろう。ちなみに、夏クイナと呼ばれるヒクイナは「インドから中国東部およびフィリピンにかけて分布する。」とあるので、ロシアにはいない。

 それにしても、クイナという鳥は、どうして飛べるのに飛ばないのだろう。ダチョウのようにまったく飛べないならそれは仕方ない。ニワトリのように辛うじて飛べるという程度ならそれもいい。クイナはおそらくその気になれば、結構長い距離を飛べるのだろう。それなのに、すぐに飛ぶのをやめて歩いてしまう。

 もちろん、チェーホフがいうようにロシアまで秧鶏は飛ばないで全路を歩いて来るわけではないだろう。それは雁が「凍死を免れるため人間に身を委ねる」なんてことがないのと同じである。しかし、クイナが歩いている様子を見ると、いかにも「全路を歩いて来る」ような気がしたのだろう。

 飛べるのに、飛ばない。その意地っ張りな姿勢が、チェーホフや伊東の共感を呼んだのかもしれない。ぼくもまたそこに深く共感するのだ。

 「何とこの世の生活といふものは辛いものでせう!」というチェーホフの言葉も身に染みる。雁のように世俗におもねるにしても、クイナのように意地を張るにしても、生きることが辛いことになんら変わりはない。この辛さをかみしめながら、ときどきぼくは心の中で呪文のように唱えるのだ。「秧鶏は飛ばずに全路を歩いて来る!」と。そうすると、視界がパッと開けるような気がするのだ。「いらない」と伊東はつっぱねるが、「匂いのいい朝風」や「レース雲」が視界に広がる。「反落葉にたまった美しい露」をぼくもクイナをまねて飲んでしまう。そして、ぼくは自分の足でグングン歩き始める。クイナのように……


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