11 エーコに笑われる

2011.6.26


 電子書籍に関する議論は、どうしても感情論に走りがちで、たとえば古書店主でもある出久根達郎などに言わせると、

 電子書籍は、古書業界では話題に上ることがあっても、論議には至らない。正直言って、まだ、ピンとこないのである。画面上に活字が現れて、はい、これが電子書籍です、と言われても、こんなもの、子ども相手のゲームのようなものとしか思えない。何が書籍なものか、馬鹿にするなよ、と悪態をつきたくなる。古書業者が、でなく、業者の一人である私が、である。

『本は、これから』岩波新書・2010刊・以下同

 てなことなる。「子ども相手のゲーム」を、「くだらないもの」の比喩として使うセンスの古さには苦笑するが、まあ「何が書籍なものか、馬鹿にするなよ。」という感想は、多くの日本人の高齢者が感じるところのものであろう。

 先日、学校帰りのバスの中で、愛用のiPadで、「自炊した電子書籍」を読んでいたら、突然後ろの座席に座っていたジイサンに「やめてくれないか、それ! 眩しくて目がチカチカする!」と怒られた。iPadの画面に窓からの日光が反射して鏡のようになってジイサンの顔面を照らしたのかと一瞬思ったのだが、そういう状況でもなさそうだった。とすれば、後ろからわざわざ覗きこんで、それで眩しいって感じたのだろうか。ぼくはムッとしたが、これでもいい歳だから、こんなことでケンカしても始まらないとちゃんと思って、即座に「あ、そうですか。すみません。」と言っておとなしくiPadをしまい、iPodで音楽を聴いた。

 しかし「やめてくれないか。」という言い方には、まるで子どもがバスの中でゲームをしているのを注意するかのような響きがあり、そのジイサンがiPadに反感を感じた可能性がないわけではなさそうだ。「いい歳して、そんな子どもだましで遊んでいるな!」という気持ちがそのジイサンにあったのかもしれない。いや、きっとそうに違いない。

 思えば、先端的な技術というものは、最初はいつも「子ども相手のゲーム」といって非難されたり、バカにされたりしてきたのではなかったろうか。しかし「子ども相手のゲーム」だからこそ、無限の可能性を秘めていたのだともいえるのだ。なんてったって、無類の遊び好きの子どもを夢中にさせるゲームだ。いい加減なものであるはずはないではないか。

 ジイサンだって、子どもに近づいた存在なのだから、「子ども相手のゲーム」こそいいオトモダチのはずなのだが、近ごろのジイサンは、いばってばかりいて、かわいくない。

 で、出久根氏だが、こんな風に続けている。

 アメリカで大流行、と聞いても、アメリカ人なら喜びそうな物だから当然と思うだけで、日本人に受け入れられるとは限らない。紙の本も読まない者が、電子の本を読むだろうか。読むとしたら、それは印刷されたような端正な文章でなく、ひとりごとのような、どうでもよい文章である。おそらく、紙の本とは違う、電子書籍向きの文章であろう。

 「アメリカ人なら喜びそうな物だから当然」とは何とまた差別と偏見に満ちたご意見だろう。「電子書籍か、フン!」といった反応をする人には、概してこうした偏狭さがみられるようだ。しかしまあこれとても、日本人がアメリカ人に対して持つ、ごく一般的な偏見として見過ごしてやってもいい。けれども「ひとりごとのような、どうでもよい文章」となると、気に障る。ここで想定されているのは「ブログ」などの文章だろうから、当然、ぼくの文章などもその中に入るわけである。ぼくの文章が、「どうでもいい文章」であることを認めるにヤブサカではないが、そうでない文章だってネット上にはたくさんある。こうして「味噌もくそも一緒」にした断定は許せない。

 こうしたこの人の思い上がった心性は、当然のように次のような暴走を呼ぶことになる。

 すなわち、ここで紙の本と電子のそれとは、厳然と区別される。愛好者もそれぞれだろう。
 これは大抵の品に言えることだが、私はコレクションの対象にならない物は、流行しないと見ている。電子書籍は、それに該当する。日本人は物集めが大好きな民族である。コレクションを文化と心得る(いや、文化にした)、ユニークな人種である。集めて保存することに意義をみいだしたのは、天災や火災の多い国だからだろう。コレクションを大切に守り、増やし続けるのが生き甲斐なのは、国民性といってよい。消滅する恐れのある物だから、守るのである。

 これでも、岩波新書に書くことができる「物書き」なのだろうか。「紙の書籍」を出せる人間(出久根氏本人もそこに含まれる)は「印刷されたような端正な文章」(この表現もほとんど破綻しているが。)を書けるが、電子書籍にしか書けないようなヤツの文章は「ひとりごとのような、どうでもいい文章」である。という権威主義、思い上がり。更に言えば、「ひとりごと」が「どうでもいい」ということにはならない。大半のエッセイの類は「ひとりごと」である。

 「コレクションを文化と心得る(いや、文化にした)、ユニークな人種である。」となると、バカもやすみやすみ言えとしかいいようがない。これでは、まるで、欧米人は「コレクション」とは無縁な野蛮人だということになってしまうではないか。欧米人がどれくらい「コレクション」に情熱を傾けてきたかは、今更ぼくがここで力説するまでもない常識中の常識である。

 「消滅する恐れのある物」をどれだけ過去の日本人が粗末にして捨ててきたか、日本の自然の姿を一度でもきちんと見たことがあれば、一目瞭然。涙なしでは語れないことではないか。

 「日本人は物集めが大好きな民族である。」などと知識人ぶった大見得を切らずに、ただ「私は物集めが好きなのです。でも電子書籍は、並べておくことができないから嫌いなのです。」とだけ言っていればいいのに、それを「文化論」にまで広げてしまう。ここにきて、この人の「底」が見えてしまう。岩波新書もこんな人間の「ひとりごとのような、どうでもいい文章」を載せるほど堕落したということだろうか。

 そこへいくと、外つ国の大先達、ウンベルト・エーコなどは断然フトコロが深い。

 現代の文化産業が近年市場に送り出している様々な商品より、書物が優れているということは科学的に検証済みです。したがって、持ち運びが簡単で、過度の経年に耐えうるということがある程度わかっているという意味で、私は紙の本を選びます。

『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』(阪急コミニュケーションズ・2010刊)

 このように冷静に判断を述べ、メディアの耐久性を問題視しつつも、新しい電子書籍を「大歓迎だ。」とさえ言っているのである。日本人が「コレクションを文化と心得る(いや、文化にした)、ユニークな人種だ。」などという戯言をエーコは笑って見過ごしてくれるだろうか。

 

 

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