9 植物愛、あるいは老人の楽しみ

2011.6.17


 西脇順三郎という往年の詩人が、こんなことを書いている。

 私の経験では、がいして日本人よりもヨーロッパ人の方がそういう意味(「東京に生まれようがいなかに生れようが植物に全然むとんちゃくな人がたくさんいる。」という意味)で、植物を愛するようだ。草木の名を知りたがる人は植物を愛するからである。愛すれば名を知りたくなる。ヨーロッパ人は日本人よりも人の名を早くおぼえようとする。こういうことは人間に対しても同じことである。人の名を忘れることに関しては私などは最悪な日本人であろう。ところが植物の名となるとよくおぼえようとして努力している。植物の名と人間の名を比べてみると原則として植物は一つ一つ学名としてちがった名がついている。子供に先生は植物を科学として教えることも大切であるがそれと同意に植物を愛することを教えてもよいと思う。私などは老年になって植物愛をおぼえたから「植物はながく人生は短し。」

(「植物の名」『じゅんさいとすずき』所収)

 人の名を忘れることに関しては最悪な日本人だと西脇先生はおっしゃるが、どうしてどうして、ぼくに比べれば決して「最悪」ではない。下には下がいるのである。それにしても、こんなエライ詩人が「人の名を忘れる」なんてことを言っているのを聞くと、ほんとにホッとする。そして「植物の名をおぼえようと努力している」などと言うのを聞くと、深い共感をおぼえるのだ。

 西脇順三郎といえば、詩集『あんばるわりあ』などで昔は教科書でも有名で、とくに「ギリシャ的叙情詩」などと銘打った一連の詩は、ぼくも高校時代、教科書で始めて読んで、その何とも言えない異国情緒に魅了されたものである。

 ところが、当の西脇先生は、「私は青年期にはギリシャや羅馬の文学美術を偏愛した。しかし中年から老年にかけてそうした趣味は全く失われていた。」などと平然と書くのである。老年になってイタリアに旅行し、再びイタリアへの憧れが復活したと書いてはあるが、老年の西脇先生は、やはり日本の「わび・さび」のほうがしっくりきたようだ。

 先ほどのヨーロッパの人たちの「植物愛」にしても、日本に比べると、ヨーロッパにはいわゆる「雑草」の種類が少ないのだそうで、日本には様々な雑草があるから嬉しいなんて言っておられる。

 ぼくも、雑草にはそこそこ詳しいが、日本はその種類が豊富なのだと聞いて、ちょっと嬉しくなってしまった。そういえば、日本では始末におえない厄介者として有名なドクダミなんか、ヨーロッパ人はきれいな白い花の咲く草としてわざわざ庭に植えたりしているということを聞いたことがある。それもやはり、素朴な雑草の種類が少ないからなのだろうか。

 そうかと思うと、日本ではお目出度い低木として人気のあるマンリョウが、アメリカでは始末におえない雑草として嫌われていると聞いて憤慨したこともある。

 いずれにしても、西脇先生のおっしゃるとおり、日本人は案外、自然を愛していないのかもしれない。ぼくの周囲を見渡しても、「植物の名をよく知っている」という人間はごく少数に限られる。スイセンを見て、スイートピーですかと言ったり、サザンカをみてスイセンと言ったりした大人を実際に知っている。

 まして中学生や高校生は、いくら西脇先生が教育の必要を力説しても、ちょっと無理だろう。「植物愛」などというものは、やはり老年特有の楽しみなのかもしれない。

 素朴な風景を好むのは、その中に私はなんとなく「さびしさ」を感じるからであろう。私にとっては「さびしさ」は美の重大な要素であるからだ。そういう風景には私の美的感情を移入することができるからであろう。私はソバがすきだが、それも心理的なものかも知れない。ソバは私には田園のシンボルである。ソバは私には素朴な風情となって現われる。実はソバはそれほどおいしいとも思わない。私にはあの荒々しい粉をかためたひもを食うのでなく、「さびしさ」を食うのである。だから都会の朱ぬりのらんかんによりかかって高楼のテーブルでたべても、その食う位置がぶちこわしになる。ソバはやはり江戸時代をおもわせる田舎の家でクイナのいるきたない池のそばで、枯れたハスの葉をみながらたべなければならない。

(「われ、素朴を愛す」『じゅんさいとすずき』所収)

 私は雑草を好むが、それが立派な庭園にあっては、その風情はなくなる。やはり路傍にないと、さびしさが感じられない。茶道もさびしさの芸術であるから、本当はせいぜい三十円ぐらいの安茶わんで粗茶をのむべきである。ところがそれが長い間王侯やお金もちの財産くらべに堕落してしまった。かれらの茶では「わび」も「さび」もない。茶は貧者の特権である。われわれが毎日かけ茶わんで、「いこい」をすいながら水道のばん茶を便所のわきの空地をみながらのむことこそ真の茶道の精神といわなければならない。そこに宿命的な「さびしさ」がある。

(同上)

 などという境地は、なみの老人ではなかなか達せられるものではない。精進したいものである。

 

 

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