5 風通しのいい言葉

2011.5.27


 自分の気質と性格にあまり固執してはならない。われわれの第一の才能はさまざまな習慣に順応できるということである。やむをえずたった一つの生き方にへばりつき、しがみついているのは、息をしているというだけで、生きるということではない。もっとも美しい心とはもっとも多くの多様性と柔軟性をもった心である。

 私には、たとえ、自分を好きなように鍛え上げることが許されるとしても、脱け出せなくなる位にはまり込んでみたいと思うような結構な型は一つもない。人生は不同な、不規則な、多様な運動である。絶えず自分に従い、自分の傾向にとらわれて、そこから逃れることもそれをねじ曲げることもできないようなのは、自己の友たることでもなく、いわんや自己の主人たることでもなく、自己の奴隷たることである。

 モンテーニュの『エセー』を読んでいると、ときどき、こういう素敵な文章にめぐりあえる。散歩の途中で、他人の家の庭に思いがけない珍しい花を見つけたり、電線にとまった初ツバメを見つけたりするようなもので、こうした「めぐりあい」によって、それまでとらわれていた暗い気分とか不安とかいったものから突然解放されたり、思考の堂々巡りからふわっと抜け出せたりする。

 「もっとも美しい心とはもっとも多くの多様性と柔軟性をもった心である。」かあ、とため息ついてしまう。ここまで言われると、何だかモンテーニュが「心の友」のように思えてくる。(そうだ。読書こそ、心の友を見つける最短の道なのだ。)

 学校という特殊な場所に長年生息していると、こうした風通しのよい言葉とはまるで正反対の言葉の渦に巻き込まれる。「高校生らしくしなさい。」「男らしく行動しなさい。(これは最近はさすがに激減したが)」「○○生(ここに学校名が入る。)らしく生きていけ。」などなど。その果てには「君らしくないぞ。」がやってくる。

 この「らしくあれ」という命令ほど息苦しいものはない。いうまでもなく、こうした命令は、ある一定の規範を押しつけるものだ。「高校生」「男」「○○生」といった概念に、「こうあるべきだ」という規範を無理矢理括り付けて、それを身につけさせようとする。そうすることが「教育」だと思っているのだ。

 しかしそれでも「高校生らしくない。」と言われたとしても、「そんな高校生像はオレには関係ねえや。」と言って突っぱねればそれですむことだが、「君らしくない。」なんて言われると、どうしていいか分からなくなってしまう。何だかこの言葉には、ちょっと褒められたようなニュアンスがあるので、つい「テヘヘ」みたいな中途半端な受け入れ方をしてしまって、「先生、オレらしいっていうのはどういうんですか?」と聞き返すことを忘れてしまいがちだ。

 で、ひとりになって、さて「オレらしさ」って、いったいどういうんだろうと考え込むことになる。考えたってわかるはずもない。

 よく若い人が「自分らしく生きて行きたい。」などと口走るが、そういう言葉を聞くたびに、まだ若い身空で、「自分らしく」なんてよく言えるなあ。そんなに自分に自信があるのだろうか。オレにはとても言えないなあ、なんて思ってしまう。

 「自分らしく」なんて、「自分」を狭く規定し、限定してしまうから言えることだ。モンテーニュに言わせれば「自己の奴隷」となることだ。

 「自分らしい生き方」などということは考えず、「人生は不同な、不規則な、多様な運動」と心得、「多様で柔軟な心」をもって生きることだ。「オマエの言ってることは矛盾だらけだ。」と非難されたら、モンテーニュにならって「私自身は偶然によるばかりでなく、自分の意図によっても、今すぐにも変わるかもしれない。」と言えばいい。

 そういえば、先日出版されたばかりの本『ラー油とハイボール──時代の空気は「食」でつかむ』(子安大輔著・新潮新書・2011年5月20日刊)のあとがきに、こんな文章があった。

 今は先の読めない時代だ、というのは多くの人の共通認識でしょう。こういう混沌とした状況においては、大きな声で結論を断言する人が注目を集め、優秀で信頼できるとされがちです。
 けれども、未来がわからない今だからこそ、「結論を急がずに、態度を留保する」とか、「どちらが正しいかわからないので、両論を併記する」とか、こうしたスタンスがむしろ重要ではないかと思うのです。
 これは優柔不断を意味しているわけではありません。その態度、何らかの意思を表明したり、結論を出したりするとしても、それに必要以上に固執するのではなく、状況次第では常に方向性を変えられる柔軟性を持っておくことが重要なのではないでしょうか。「事実」とは、一つの「視点」に過ぎない。
 これは最近、私が強く意識していることです。「事実」とされているものを、普遍的な真実と決めつけるのではなく、それはあくまで誰かの「視点」であると考えた方が、よりフラットな目で世の中を見ていける気がしています。
 できるだけ多くの視点に立って物事を様々な角度から見つめる意識を持つ。これこそがこの難しい世の中を何とか進んでいくために大切な態度であると私は確信しています。

 子安大輔氏は、まだ30代半ばの若者だが、奇しくもモンテーニュと同じ「固執することなく柔軟に」というテーマを提示している。震災直後の文章だけに、言葉に実感がこもっている。モンテーニュも、実は激動の時代をしたたかに生きぬいた人だったのだ。

 子安氏は、ぼくの教え子だが、ここにも「心の友」を見た思いがして、何だかとても嬉しい。


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