2 「偽善」あるいは「本心」について

2011.5.14


 ぼくの勤務校で、今度の被災地へでかけてボランティア活動をしてきた教職員がいて、その体験を高校2年生に話すという授業があり、それを聞いた生徒達の感想文というのを読んだ。ほとんどの生徒が、自分に何ができるのかを問いかけ、高校生の身ではなかなか現地へ行ってお手伝いはできないから、今できることを精一杯やっていくことが大事だと思うとか、出来る限りの募金をしたり、節電をしたりしたいと書いていた。

 その中で、数人が「偽善」という言葉を使っているのが目についた。被災者の人に向けてメッセージを書いたり、義援金を送ったりすることが、偽善ではないかと思って悩んでしまう高校生の姿がそこにはあり、言い方は変だが、何だか懐かしかった。

 自分の行為が偽善ではないかと悩むのは、青年特有のことだ。老人が自分は偽善者ではないかと悩んだなんていう話は聞いたことがない。大阪のオバチャン(別に大阪に限ったことではないが)なんかも、多分そんなことで悩みはしないだろう。つまり、人間も年をとって面の皮が厚くなってくると、自分が他人にどう見られているかなんてことは考えなくなるのである。

 青年は、自分が人からどう見られているか、どう思われているかということで頭がいっぱいだから、自分の行為も偽善ではないかとすぐに思ってしまう。

 そもそも偽善とは何なのか。本当は悪いやつが、人にいい人だと思われたいがために無理して善行をなすことだろう。広辞苑には「本心からではなく、みせかけにする善事。」とある。けれども、人を平気で殺したり、オレオレ詐欺で老人から金を巻き上げたりするような極悪非道の悪人が、みせかけにもせよ、善事をなすことなど普通は考えられない。彼らは、見せかけだろうが、よく思われたいだろうが、とにかく、困っている人のためにお小遣いを募金したり、メッセージカードに励ましの言葉を書いたりするだろうか。するわけがない。するとしたら、何か魂胆があるはずで、そういう魂胆のある善行は偽善とは言わない。詐欺という。

 とすれば、「偽善的な行為」というのは、本当は存在しないのであって、そこにはただ「善行」があるばかりである。それが偽善かどうかは、行為自体からは見えてこないし、見えてこない以上、それは客観的にはないも同然だといっていい。偽善は、行為者の心の中の問題としてだけ存在するのだ。

 街頭で募金箱を持って募金を呼びかけている高校生がいるとする。それを見た別の高校生が、「あいつら偽善的だなあ。」と感じた場合、そう感じる高校生は、「あいつら、本当は遊びたいのに、いいとこ見せたいと思ってあんなことやってるに違いない。」と解釈したのだ。けれども、事実としては、募金をしている高校生がいるだけで、その高校生がどういう気持ちで募金活動をしているのかは絶対に他人には分からない。分からないはずのことを、どうして軽々しく「偽善だ」と判断できるのか。そんな判断を勝手にしていいのなら、道で倒れている老人を蹴っ飛ばした高校生がいたとして、それを「あいつは本心ではあの老人のことが心配なのに、わざと悪人ぶってあんなことをしたのだ。」と解釈したっていいことになる。しかし、そんな解釈をする人間はいない。

 「本心」なんて、分からないものなのだ。それが自分自身のことであっても、分からない。まして他人の本心なんて分かるわけがない。分からないものならば、本心なんてどうでもじゃないか。

 1000円を募金した友人に向かって、「おまえ、それ本心からじゃないだろう。本当は、惜しいと思っているんだろう。偽善者め。」などと言うのはお門違いも甚だしい。1000円を惜しいと思いつつ募金箱に入れるのと、全然惜しくもなんともなく募金箱に入れるのとでは、どっちが尊いか。惜しいと思いつつ募金する方が断然尊いに決まっている。

 孫社長が100億円寄付するより、小学生がお小遣いから100円寄付する方がよほど尊い、かもしれないのだ。


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