1 「規則を破ること」と「型を破ること」について

2011.5.10


 このエッセイの第7期終了に際して、これまでの経緯とこれからの方針についていろいろと書いたところ、長年の愛読者の友人のひとりから、おめでとうメールがきて、その中に、「しかし、従来の規則を変えるっていうのは、それが自分の立てた規則でも、なんだか言い訳がましく長くなるなあ。ほんらい必要ないからかな。なにも書かずに、あとになって『じつはあのとき』もありだよね。」とあった。

 確かに、「ほんらい必要ない」ことだ。それなのに、なんだか「言い訳がましい」ことを延々と書いてしまうというのも、考えてみればおかしなことだ。どうしてだろう。

 自分で立てた規則というのは、他人から押しつけられた規則よりも、実は破るのが難しいのではなかろうか。

 他人から押しつけられた規則というのは、「押しつけられた」という被害者意識があるから、それへの反発から、「破る」ことに一種の快感がある。中学生や高校生が、制服をわざと崩して着たり、髪を金髪にしたり、果ては暴走行為を繰り返したりするのも、「押しつけられた規則」への反発と、それを破ることの快感故であろう。しかし、自分が立てた規則というのは、破っても快感がない。むしろ破ることに罪悪感を感じてしまう。自分自身を裏切ったような気がするからである。

 カトリックは戒律が厳しいと思っている人は多いと思うが、確かに、いろいろは戒律めいたことは多い。しかし、それはあくまで教会が「押しつける」戒律なので、破ることになったとしても、「おれが悪いんじゃない。教会が厳しすぎるんだ。」というように、罪を教会になすりつけることができる。(もちろん、よくないことですが。)

 プロテスタントの方のことはよく知らないが、どうしても教会を介して神と対峙するのではなく、神と自分個人の関係という色彩が強いから、自分で自分を縛る傾向になる。すると、どうも罪をなすりつける先が見つからず、(まさか神が悪いとは言えまい)自分自身を責めることになりがちなような気がする。

 人間である以上、カトリック教徒であれ、プロテスタント教徒であれ、罪を犯すことにおいては何の変わりもない。

 宗教のことを持ち出すまでもなく、要するに、自分で立てた規則は破りにくい。だから破るとなると、言い訳がましくなるのだ、ということを言いたいわけである。これもまた言い訳がましいが。

 ところで、おめでとうメールはもう一通あった。その中に、「次回からの型破りな作品を楽しみにしています。」という言葉があった。

 ぼくが、撤廃したのは、週1回、土曜日という定期的な更新の仕方と、1000字という字数制限だけだったのだが、「型破りな作品」となると、内容的にも、今までとは違った傾向ということになる。正直、そこまで考えてはいなかった。字数を減らしたり、増やしたりしても、「型破り」にはならない。今までの「型」にとらわれず、自由に書くということだろう。

 1000字以内という制限はもうけたが、「型」を意識していたわけではない。けれども、700も書いていれば、そこにいろいろな意味での「型」が出来ていたことは確かだろう。文章構成の「型」、書き出しの「型」、締めくくりの「型」、そして思考の「型」……。そういう「型」を破るということは、規則を破るよりも難しい。自分自身を変えていくことにつながるからだ。

 でも、何だか、希望が見えてきた。困難なことに立ち向かうことは、結構楽しいからだ。これから、このエッセイが、どこまで自由自在、千変万化、融通無碍といった形容ができるものになっていくことができるか、自分自身の楽しみとしたい。まあ、人間が小さく、臆病者で、常に小さくまとまろうとする傾向の顕著なぼくのことだから、前途遼遠ではあるけれど、読者諸賢におかれましても、海のごとき寛大な心で見守っていただければ幸いです。


Home | Index | Next