58 プロセスに意味がある

2010.8


 セミがその生涯の大部分を真っ暗な地中で過ごすということは、つとに有名な話で、随分前になるが、そういうセミの悲劇を書いたことがある

 そのときの基本的なスタンスは、一生のほとんどを真っ暗な地中で、何の楽しみもなく、ただただ木の根っこかなんかにしがみついて樹液をチュウチュウ吸って生きてきて、やっとのことで輝かしい地上に出てきたと思ったら1週間ほどで死んでしまうなんて、なんて可哀想な生き物なんだ、という認識であった。

 つい最近まで、セミについてはそう考えていた。ところが先日ある本を読んでいたところ、セミというのは、一生のほとんどを地中で暮らすわけだが、この地中の生活こそ、セミにとっての至福の時間なのだ。何しろ地上に比べれば格段に安全だし、食べ物はそれこそすぐ近くに無限にあるし(セミの幼虫の食べ物が本当に樹液なのか、確かめてないが、樹液だとしたら、ほんとに無限だ。しかもよく考えてみると樹液といったって、色々な樹木があるわけだから、そろぞれ違った味がするのかもしれない。)、とにかく天国なのだ、といったようなことが書かれていた。

 そうなのかあ、と驚いた。夏の日差しを受けて大声で鳴いている成虫はいかにも喜びに溢れて、今という一瞬を精いっぱい生きているという感じがするのに、地中の幼虫は、6年とか7年とかいった時間を「ただ耐えている」というようにしか感じ取れない。

 それが逆だというのだ。もっともそれを書いた人もセミ本人ではないから、確かなことではないだろうが、そう言われてみればそんな気もする。

 ぼくら人間だって、母親の胎内にいたときが一番シアワセだったことは確かだろう。生まれてきたばっかりに、ものも自力で食べなくてはならなくなった。頭痛もするし、腰も痛い。胎内では何の苦労もなかった。

 地中に出てきて成虫になって、そして卵を産んで子孫を残してこそセミの「人生」に意味があるというのは、考えてみればずいぶん功利的な考えだ。もちろんそもそも生き物の生きる目的は「子孫を残すこと」だということらしいから、その線から言えば、別に功利的でもなんでもないのだが、しかしせっかく成虫になったのに、卵を産む前に鳥に食われてしまったセミの「人生」はまったく無駄だったということではないのだという考え方には、どこかでぼくら人間に生きる意味をもう一度考えさせるインパクトがある。

 生きるプロセスのすべてに意味があるということだ。


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