59 「いただきます」の心

2010.8


 テレビのニュースを見ていたら、給食の場面があって、クラス委員のような子が前に立ち、「おいしさをいただきます!」と大声で言った。あまりのことに、大げさに言えば、しばらく呆然としてしまった。

 いったい誰が、何を思って、こういう言葉を考え出したのだろう。

 ほんとのところはよくわからないが、だいたいの察しはつく。

 内田樹の本を読んでいたら、「だいたい給食費をちゃんと払っているのに、『いただきます』と言わせることはケシカラン、と学校に言ってくる親がいるらしい。」というようなことが書いてあった。そういう話をぼくもどこかで聞いた覚えがある。「いただく」わけではない、ちゃんと金で買ったのだ、という理屈である。

 その他にも理由は考えられる。そもそも宗教とは無縁のはずの公立学校で、「いただきます」という、いわば祈りの言葉を強制的に言わせるのはおかしいではないか、というクレームがあったのかもしれない。

 内田は「人間は、あるとき、これは自分への贈り物ではないかと思う瞬間があり、そのとき、そのことに価値が生まれるのだ。」という文化人類学の知見を紹介しているが、給食に出された食べ物が「これはぼくへのプレゼントかも」と思う子どもはまずいないだろうけれども、「いただきます」という言葉は、そういうことに気づかせるきっかけになるはずである。

 その食べ物は、お金を払ったから当然手に入ったというものではなく、農家の人々や、流通に関わる人々や、給食のおばさんたちや、それを給食室から運んできた係の子どもたちの「労苦」なしには決して口に入るものではないのだということ。そういうすべての人々、あるいはこうした食べ物をこの世に存在させている自然というもの(それを神といっても同じことだ)にむかって、「いただきます」というわけだ。だからもちろん、「いただきます」は「ありがとう」と同じことになる。

 「いただきます」は、「何を」という目的語がないことによって祈りの言葉となる。誰にむかって、また何にむかって「いただきます」と言っているのかについて、子どもたちに想像力を働かせるように促すのだ。

 「おいしさを」という限定をつけることは、「いただきます」の心を殺してしまうことだ。これでは、「このおいしい食事を食べます。」という宣言にしかならない。こうした小賢しいオトナの「配慮」によって、子どもの想像力も殺されていくのである。


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