60 人生の再設計

2010.9


 この夏の大半は蔵書の整理に費やしてしまった。整理といってもいろいろで、実際に段ボールに本を詰めて古書店に送ったり、再三書いてきたように電子書籍化をしたりという実際の行動もさることながら、本棚を眺めて、さてどれを売却し、どれを電子書籍化し、どれを生涯の伴侶として残すかといったことを考えることに費やした時間が圧倒的に多かった。

 ある日には、本棚の本のすべてがいとおしくて、どれも処分できないと思ったのに、その翌日になると、すべての本が不要に思えて、それなら古書店に車で来てもらい、片っ端から売り飛ばしてしまおうかなどと考えた。

 それにしても、いったいどういうつもりでこれだけの本をせっせと書い集めたのだろうと、ため息の出る日々だった。

 孫娘に指摘されるまでもなく、蔵書のほとんどは読んでいない。それでも買ったということは、少なくともその時点では、「いつか読もう。」と思ったということである。いや、それも正確ではない。「いつか読めたらいいなあ。」と思ったということだ。

 内田樹は前回紹介した本で、「人から『センスのいい人』だと思われたい、『知的な人』だと思われたい、あるいは『底知れぬ人』だと思われたい、そういう僕たちの欲望が書棚にはあらわに投影されている。」と書いている。たとえ誰も見ることのない本棚でも、自分はいつも見ている。とすれば、本棚は、いつも自分自身に「オレはこういう本を読むような人になりたいのだ。」ということを訴え続けているのだとも彼は言う。そしてそのことが、電子書籍にはない、本棚の「効用」なのだと言うのである。

 これはほんとうに心の底から共感を禁じ得ない意見ではあるが、今のぼくの心境とは微妙にずれているのも確かである。

 本棚の本がすべて不要と思える時、ああオレの人生はいったい何だったのだという深い感慨がそれに伴うのである。結局、「こういう人になりたい。」ということのためだけに、オレは本を買い続けてきたのだということが、もう紛れもない事実としてぼくの前にある。そして「結局そういう人にはなれなかった。」というのが次に来る実感なのである。

 「いつか読めたらいいなあ。」という理由ではもう本は買えないし、取っておくこともできない。ぼくに残された時間は長くてもせいぜい20年。ぼくはいま本を整理することで、自分のこれからの残された人生を再設計しているような気分になっている。


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