61 貧乏くさいということ

2010.9


 隠居がはやっているらしい。広告評論家の天野祐吉も、「隠居大学」というような講座をやっているらしいが、朝のラジオでも隠居について話していて、「退屈が耐えられないなんて、貧乏くさいですよ。金がなければ遊べないというのも貧乏くさいなあ。」なんて言っていた。

 「退屈を楽しめなければダメなんです。」ということなのだが、退屈で退屈で死にそうだなんていう人は、要するに何か働いていないと気が済まない。その場合の働くということは、たいていは金のためだから、そういうのは貧乏くさいということになるわけだろう。

 「貧乏」と「貧乏くさい」とは違う。貧乏というのはほんとうに食う金にも困って泥棒でもするしかないかというようなところまで追い込まれることで、これは努力とか心がけとかいった個人的な問題を超えて社会的な問題である。貧乏というより貧困といったほうが適切だろう。

 それに対して、貧乏くさいというのは、金のあるなしには関係ない。というか貧乏人は決して貧乏くさいということはない。貧乏人はただ貧乏なのだ。貧乏くさいのは、決して貧乏とはいえない人、あるいはある程度の金持ち(小金持ち?)にみられる特別な現象である。

 貧乏くさいというのは、それほど金に困っているわけではないのに、何かと金に対して細かいとか、そこそこの金があって貧乏とはいえないのに、自分の境遇に満足することなく、どこかで金持ちにあこがれているというような心の状態のことではないかと思う。

 たとえば、テレビのサザエさん一家というのは、貧乏くささの典型だ。サザエさん一家というのは、絶対に貧乏ではないのに、どこかで金持ちに切なくあこがれている。サザエさんの「いいわねー。」というセリフがどこかでいつも聞こえている。カツオも、いつもおこづかいやたべものに飢えている。マスオさんは、自由にあこがれながら、いつも「ま、いいか。」と我慢している。ほんとに貧乏くさい。

 そこへいくと、「ちびまる子ちゃん」一家は、サザエさんの家より収入は少ないはずなのに、ちっとも貧乏くささを感じさせない。だれも金持ちにあこがれていないからだ。気持ちがいい。

 そういえば、一昔前にはやった「一点豪華主義」というのも、実に貧乏くさい発想で大嫌いだった。

 極論すれば、戦後の日本は、総じて貧乏くさい。貧乏くさいうちはまだいいけれど、そのうち、ほんとの貧乏になってしまうのではなかろうか。


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