33 シベリアのドイツ人

2010.2


 このエッセイでは一度しかたぶん触れたことはないが、ぼくの父はシベリア抑留者である。満州で敗戦を迎えそのままソ連軍にシベリアの奥地へ連行された。その抑留地の名前を生前の父から聞きたいと思いつつ、とうとう聞き出せなかったが、バイカル湖よりもはるか奥であったことは確かだ。

 復員は昭和23年の夏。タマスダレの満開のころだったそうだ。母によると、父はタマスダレを見ると「復員の花」だと言っていたそうで、そういえば我が家にはタマスダレがいつも咲いていた。どういうわけか結婚してから住んでいる今の家にもタマスダレが夏になると咲く。

 ぼくが生まれたのは昭和24年の秋。復員した父がすぐにお見合いをして母と結婚し、ぼくが生まれた。「団塊の世代」の掉尾を飾るご生誕というわけである。

 教壇に立って以来、ぼくはことあるごとに父の抑留体験を語ってきた。父から聞いたその体験は、数少なく、しかも断片的で、更に真偽のほども疑われるものもあるのだが、いずれにしてもぼくの出生と戦争とは切っても切れない関係にあることは確かだし、父がシベリアから生還しなければそもそもぼくの存在自体がないのだから、父の体験を語るのはいわば自分のそれを語るようなものだと思ってきたのだ。

 その父の話の中で、ちょっとしたエピソードなのだが妙に感心した話がある。シベリアでの抑留生活の中心は、当然のことながら「強制労働」だが、いったい何をどうしていたのかということになるとどうも分からなかった。ただ父はあるとき、こんなことを話した。

 仕事といっても、何を作っているんだか俺たちには分からない。あるとき、レンガや石を積み上げていたんだが、まあ俺たち日本人は、人の国のためのそんな仕事なんかを熱心にやらないよ。疲れないように適当にやっていたもんだ。ところが、俺たちのそばで働いているドイツ人(これも捕虜)の連中ときたら、やけに熱心なんだ。絶対に手を抜かない。それで、どうしてお前たちはそんなに一生懸命やるんだと聞いたのさ。(父にドイツ語ができるわけはないから、誰かが聞いたんだろう。)するとだ。「今はここはソ連の領土だが、いつか必ず俺たちが取り返す。その時に、使い物にならなかったらどうするんだ。だから、その時のためにしっかりしたものを作っておくんだ。」って言うのさ。いやあたまげたなあ。あいつらはやっぱり日本人とは違うなあ。

 ほんとに違うよなあと、ぼくは今でも思う。

 


Home | Index | back | Next