12 60歳

2009.10


 今日2009年10月3日は、ぼくの満60歳の誕生日だ。

 こう書いてみて、どうもしっくりこない。2000年の12月に「51」と題するエッセイを書いて、定年後に3冊の辞書を完成させた白川静のことに触れているが、あれからもう9年も経ったという実感がないのである。これを時の経つのは早いものだという感慨としてまとめることもできるが、それでは今ぼくが感じている何かしっくりこないなあという思いとは食い違ってしまう。

 ところで白川静だが、歳をとってから常人では考えられないような仕事をしたからエライのではなくて、一人で辞書を3冊も書いたからエライのだと最近思うようになった。若い学者が白川静と同じことができたかというとそんなことはない。つまり何歳で書いたということはまったく関係のないことなのだ。

 よく、90歳になってもフルマラソンを走ったとか、80歳でエベレストに登ったとかいうことが、ものすごくエライことのように言われるが、ぼくにはそうエライとも思えない。フルマラソンを走るとかエベレストに登るとかいうこと自体は、ぼくには到底できないことなので、エライとは思うが、それも年齢とは無関係だ。むしろ老人が若者と同じことをしても、しょうがないんじゃないかと思う。

 森光子が90歳近くになっても、まだ現役で『放浪記』を演じているのはたいしたことだとは思うが、最近の長門裕之が、テレビで痴呆症の老人をすさまじいまでの迫力で演じているのを見ると、やっぱり長門のほうがエライなあと思ってしまう。

 元気なご老人にインタビューすると「わたしは年寄りだなんて思ってない。自分が何歳かなんてことは考えたことないよ。」などという人が多い。そして、いかに自分が若者に負けていないかを自慢する。けれども、そこにかえって「老い」に対する恐怖を感じてしまうのだ。「何歳かを考えない」ということは「考えると怖い」からではないのだろうか。

 60歳になると映画が1000円となる。つまり「老人扱い」である。それでいい。老人は若者の真似をしてもしかたがない。むしろ、老人としての覚悟、若者が決して持ち得ない覚悟をこそ持って生きるべきだろう。それは常に己の死を見つめて、つまりは自分の年齢を確認して生きることにほかなるまい。

 これから何年生きることになるのか知らないが、「老いる」ことの意味と価値を追究していきたいと思う誕生日である。



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