11 普段の寸法

2009.9


 つい2、3年前まで床に就くのはたいてい12時近くだった。9時から始まるサスペンスを見ていると11時近くになり、その後風呂に入り、ちょっとお酒をなんていっているうちに、12時を過ぎてしまうなんてこともしょっちゅうだった。それが、2時間サスペンスの放送もぐっと減り、酒を飲むこともダイエットを機にやめてしまってからというもの、10時ぐらいになるともうすることがなくなってしまい、近ごろでは10時半を過ぎるとベッドに入ってしまうという日々。そのかわり朝は6時前には目が醒めるというのだから、要するに老人になったということだ。

 寝付きはきわめていいほうなので、ベッドに入って電気を消して目をつぶれば5分と経たないうちに寝てしまうのが常だが、それではなんとなくもったいないような気がするから、本を読んだり落語を聞いたりしている。

 先日もそうやって志ん生の落語を聞き始めたのだが、客席でやたら目立つ声で笑う女がいて、だんだんそれが気になってきて、しまいには志ん生の話よりも、その甲高い笑い声の方ばかり耳に入ってくるようになり、だんだん腹立たしくなってきて、とうとう圓生のスタジオ録音の方にかえてしまった。そしたらすぐに寝てしまったが。

 落語のスタジオ録音というのは、笑い声が入らないから味気ないと言う人もいるが、もちろんそういうことはあるものの、ライブ録音ならいいかというと、志ん生の録音の場合のように、笑いすぎるお客の声がもろに入っていたりすると、かえって誰も笑わないスタジオ録音のほうが話をじっくり聞けるからいいやと思うこともあるのである。

 柳家喜多八という落語家は、よくマクラで、近ごろの寄席はどうもはしゃいだ雰囲気があって気に入らないというようなことを言う。落語ブームがまだ続いている昨今では、若手芸人のお笑いを聞くノリで落語を聞きに来る客が多いのだろう。

 喜多八は正月興行も嫌だという。どこか浮ついた、はしゃいだ雰囲気で、落ち着いてじっくり落語の情緒を味わってもらえないのが気にくわないというのだ。

 普段の寸法がいい、と喜多八は言う。その通りだ。

 はしゃいだ気分は、何事も表面をなでるだけにしてしまう。ブームというのはその代表株だ。落語ブームも終わって、空席の目立つ寄席で、盛りを過ぎた落語家の、そんなに笑えない、でもしみじみとした語りを、ときどき小さくプッと噴き出しながら聴きたいものだ。



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