56 碁友復活

2008.9


 今年の1月のエッセイにこんなことを書いた。

今年で59歳となるはずで、定年も間近となった今、デジタル機器などを追いかけているバヤイではない。来るべき年金生活に備え、金のかからない楽しみにこそ邁進するべきだろう。ひとつ、読書。ひとつ、水彩画。ひとつ、書道。ひとつ、園芸。そしてできれば囲碁。これだけあれば死ぬまで楽しめるはずだ。

 夏休みに入ったある日、こんなメールが届いた。

先日、あなたのエッセイを読んでいたら、「そしてできれば囲碁。」というくだりに気がついた。それじゃ、やっぱり打とうじゃないの。夏休み中にでも、是非。

 このメールを送ってきたのは、ぼくの中学時代からの親友で、今では、某国立大学の教授をしている。自宅がぼくのうちから歩いて10分ほどという近さなのに、お互い結構忙しい(というより彼が忙しい)ので、たまに近くのイトーヨーカドーで買い物しているときにばったり会うぐらいで、年中会って飲んでいるというようなわけではない。

 ぼくが家内の父から囲碁を習ったのは、もう30年以上も前のことで、その後何年も囲碁の会などに通っていたが、いっこうに強くならないので、いつの間にか囲碁の会の方もやめてしまった。しかし、10年ほど前のことだったか、囲碁を少し覚えたばかりの彼と何局か打ったことがある。彼の方が頭脳明晰だから、到底かなうものではなかったが、まあ楽しかった。囲碁というのはハンディキャップをつけることができるので、あまり勝ち負けにこだわらなければそれなりに楽しむことができるというわけだ。

 中国では、竹林の七賢みたいなのが竹藪の中で囲碁を打っているなんていう図があって、それはなかなかいいものである。ぼくがとてつもなく勝負事が苦手で、何をやっても勝てないのに、囲碁だけはそれでも興味を持ち続けてきたのは、ひとえにこのイメージがあるからだ。家内の父が持っている陶器の置物が、その雰囲気をよく伝えている。これをご覧になればよくわかるだろう。

 というわけで、そのメールがあってほどなく、彼の家に出かけ、3局ほど打った。もちろんぼくが黒で、5目置いたり、4目置いたりで打ったのだが、ぼくが全敗というわけでもなかった。それにしても、あまりにもぼくが弱いことは確かなので、せめて初段ぐらいの力を何とかしてつけたいと思って勉強をしている。何ごとも楽しむためにはそれなりの努力がいるものらしい。暇なようで忙しい毎日である。

 


 

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