55 ポンと投げ出す

2008.8


いつになったら私は、バイクタクシーの彼ほどの大人になれるのか。人のために時間を差し出せる、それを当然だと思える、本当の大人になれるのか。年齢ばかり重ねた私は、未だ子どものようにあくせくしている。(*)

 タイの旅行中、バス乗り場までバイクタクシーに乗って行ったのだが、周囲には何もないところで本当にバスが来るのか不安になって、バイクタクシーの運転手に、本当に来るのかと質問攻めにしたところ、その運転手はバスが来るまで1時間以上も一緒に待ってくれたというエピソードを語った後で、角田光代はこんな風に書いている。

 角田はぼくよりも20歳近く年下なのに、「年齢ばかり重ねた私は、未だ子どものようにあくせくしている。」などと言う。まったくオレのことじゃないかと思って、ちょっとショックだった。還暦を間近にしながら、「子どものようにあくせくしている」自分が情けなくなった。

 栄光学園の初代校長グスタフ・フォス師は、晩年『日本の父へ』という本を書いて、結構有名にもなり、その教育観に共鳴を覚える人も少なくないようだ。けれども、ぼくはフォス師の話に共感を覚えたことはあまりない。彼の話のほとんどは「君たちはエリートなんだから、張りあいを持って頑張れ。」という檄だったし、官庁の役人とか、会社の優秀な社員とかばかりが立派な卒業生の例とされた。結局立身出世主義じゃないかと、若いぼくはひどく反発したものだ。

 そういうフォス師の話で、ひとつだけ感銘を受けた話がある。ある日大船から電車に乗って、運良く座れたから仕事をしようとカバンを開けた。その時となりに座っていた学生が、外人が珍しかったらしく話しかけてきた。自分は忙しくて仕事をしたかったが、「よし仕事はあきらめて、この青年と話をしよう。」と思って東京まで話をして行ったという話である。

 別に感動的な話ではないが、印象に残ったのは、フォスさんにしては珍しい話をするなあと思ったからである。日頃、時間を無駄にするな、やるべきことをちゃんとやれというようなことばかり言っている人が、見知らぬ青年のために「時間を使った」ということが、へー、この人にもいいところがあるんだと思わせたのだった。

 それから40年、もう「あくせく」することは何もないだろうのに、人のためにポンと時間を投げ出すことがなかなかできない。自分のほうがいつ時間の外へポンと投げ出されるか分からないというのに。


*「待つということ」(『何も持たずに存在するということ』〈幻戯書房刊〉所収)


 

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