27 愛の水中花

2008.2


 国語科の研究室にあった200冊を超えようという書道の全集を、ただの場所ふさぎで邪魔なものとしてしか認識していなかったのに、いったん書道に関心をもってからは、今度はとてつもない宝の山に見えだしたということを以前書いた。書道を習いはじめのころだ。

 こうしたことは、あらゆる分野についていえることで、植物に興味関心のない人は、道ばたの「雑草」が、邪魔で煩わしいものであると思いこそすれ、その草についた花をしげしげと眺めるなどということは絶対にしないものだ。

 興味関心がないということは、だから、とても大きな罪なのかもしれない。よく「愛」の反対語は「憎しみ」ではなく、「無関心」だということが言われる。「憎しみ」は、そのものが憎い、場合によっては殺したいほど憎いわけだから、絶対に「無関心」なのではない。むしろ関心は大ありだ。だからこそ「愛憎半ばする」ということもあるわけだ。

 道ばたの雑草が邪魔で煩わしいと思うとすれば、それはすでに「憎しみ」に属しているから、「愛」への転換は比較的容易だろう。困るのは、道ばたに草が生えていることを知らないとか、そもそも「道ばた」について思いめぐらしたことがないという場合で、これは「無関心」だから、雑草への愛をそこに芽生えさせることなどとうてい無理な相談だろう。

 書道を習いはじめのころは(といってもたかだか1年半前のことだが)、当然、楷書をひたすら習っていたから、書道の全集(ちなみにこれは二玄社から出ている「書跡名品叢刊」というもの)の中でも、楷書の巻がとても貴重に思えたが、行書や、まして草書やひらがなの巻は無用に思えたし、開いてみてもちっとも面白くなかった。そのうち、行書も始めると、行書の巻が輝きだし、とうとう草書に手を出し始めたら、何とそれまでまったくつまらない分からないとしか思っていなかった草書の巻々が、燦然と光り輝きだしたのである。

 先日、授業もなく、おまけに風邪もひいていて、仕事をする気にもなれないので、草書の一巻『孫過庭・書譜』を国語科研究室のソファーに寝っ転がって眺めていたら、実に陶然恍惚とした気分になって仙境に遊ぶ思いがした。(半分居眠りをしていたということでもあるのだが。)

 その昔、松坂慶子歌うところの『愛の水中花』という歌があったが、「興味関心」という水の中で、次から次へと美しい花の咲くさまは、我がことながらただただ呆れるばかりである。


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