23 幸福感はどこから?

2008.1


 件の「落語ゼミ」では、噺家さんが来て一席やってくださるときもあるが、ビデオで落語を鑑賞することもある。そしてその後、必ず生徒は感想と質問を書いて提出することになっている。そして次回の冒頭に、講師の山本進先生がその質問に丁寧に答えてくださるという誠に結構な仕儀となっている。

 先日のゼミでのこと、前回のビデオ『権助提灯』に関して、「裏提灯って何ですか?」という質問があったとニコニコ笑って紹介しながら、「ウラチョウチンって聞こえたのか。それはね、ウラじゃなくて、ブラなんだよ。ブラ提灯っていってね、手にぶら下げるから『ブラ提灯』っていうんです。」と説明された。ぼくも思わず笑ってしまった。提灯なんて代物は、最近ではまず使わない。せいぜいお祭りの時に、神社にぶら下がっているのを目にするぐらいだが、それはもちろん「ブラ提灯」とはいわない。

 提灯にもいろいろあったということで、先生はプリントを作ってくださったのだが、その提灯を使っている絵のプリントを眺めたとき、ふいになんともいえない「幸福感」におそわれた。

 別に芸術的に優れた絵でもなんでもない。むしろ下手な浮世絵のようなタッチで描かれた風俗画のようなものに過ぎないのだが、それはここ何年も味わったことのない、懐かしさと甘美さの入り交じった、心にしみこむような「幸福感」だった。しかしそれは、あっという間に消えてしまい、再びその絵を見ても、どこからそういう感じを受け取ったのかどうしても思い出せないのである。

 高張提灯を掲げた門で、嫁入りを待つ武家の家来たちの顔なのか、嫁の乗った駕籠に付き添う腰元たちの姿なのか、あるいは、縁側や門のあたりの風情なのか、今となっては定かではないが、とにかく、今とはまったく異なった江戸時代の家や人々の服装、そして習俗などが、なぜだかとても「いい感じ」だったということなのだろうか。

 それとも、そのとなりのページに、様々な提灯の種類を説明した絵があって、それぞれの提灯がでたらめに使われていたのではなくて、例えば「箱提灯」は武家、「弓張提灯」は商人が使うのだといった説明を聞いているうちに、そこに現代には見られない「整然とした生活の秩序」のようなものを肌で感じ、そのことにウットリしたということだったのだろうか。

 とにかく、あんまり幸福を感じられなくなった昨今、この「幸福感」の根源にあるものを探りあててみたいものだ。


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