82 「がんばっている先生」は「よい先生」か?

2007.4


 「がんばっている先生には、それなりの報酬が必要だ。」という意見を聞いて、それは変だ、おかしいと思う人はまずいないだろう。更に「それなのに現状では、がんばっている先生も、そうでない先生もみな同じ給料なんです。」と聞けば、それはおかしいと思わない人もいないだろう。だから現在の教育改革の論議も、こうした分かりやすい通俗的なレベルでどんどんと進められてしまい、ますます教育は混迷の度合いを深めていくことになる。

 「分かりやすい」ことには、常に警戒しなければならない。

 問題はどこか。「がんばっている先生」というところにある。

 「がんばっている先生」というと、だれでも教育熱心な熱血先生をイメージするだろうが、教育というものは、ただやみくもにがんばればいいというものではない。時にはがんばることがとても危険なこともある。それを言うのにいちいち軍国主義時代のことを持ち出すまでもないことだが、そういう時代があったということも忘れ去られようとしている昨今だから、ほんとうはいちいち言わなければならないのかもしれないが、どういう時代においてもがんばることが無条件でよしとされるということはない。場合によっては、がんばらないことが必要なときだってあるわけだ。

 つまりは「がんばる」というときに、「何をがんばっているか」が常に問われなければならないのに、それを無視してただ「がんばっている」先生が「よい先生」だというのが今の論調であり、そこに根本的な誤りがある。

 そういう根本的なところを別にしても、単純に、どうやって「がんばっている」かを見わけるのかという問題もある。

 あああの人はがんばってるなあと誰にも分かるのは、おれはがんばってるぞと表面にあらわす人である。しかし、もちろん、そういう人がほんとうに「よい教育」をしているかどうかは分からない。前にも書いたが、蘭の花の匂う教場でただ朱墨でお清書を直しているだけで、子どもに「寒山拾得の楽境」を感得させてしまうような先生こそがほんとうに「よい先生」だろうが、そういう人は間違ってもがんばってる姿など人には見せないだろうし、そもそもがんばってなどいないだろう。

 それにしても「民間校長」などといって、経営の論理を安易に教育の現場に持ち込むことが何の疑問もなしに肯定されているような悪しき時代においては、教育について何を言っても、空しい気分しか残らないというのもまたやるせない。


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