結局、エルトシャンは昼食を食べた後もキュアンに付き合うことになり、レポートを書いている横でキュアンの蔵書を読みふけっていた。本棚に並ぶ本は読書家には垂涎のものばかりであるが、中でも戦記物のコレクションは目を見張るものがあった。
 士官学校の図書館にも置いていない貴重な本が当たり前のように並んでいる棚から一冊を決めるのは至難の業だが、至福のひとときでもある。エルトシャンは背表紙を眺めながら、半ば独り言のように尋ねた。
「なあ……これ全部読んだのか?」
「ん?……ああ、そこら辺のはな。興味があるなら……」
 一応真面目に課題に取り組んでいるらしいキュアンは、エルトシャンの問いに顔を上げて答えようとしたが、窓を見つめたまま口を噤んでしまった。
「どうした?」
「…………」
 キュアンの固い表情に何事かと窓から外を眺めると、一頭の馬が敷地に入ってもなお速度を緩めずこちらへ駆けてくるのが見えた。
「何かあったのだろうか?」
「よくあることだ……気にするな。それより読みたいのがあれば貸そうか?」
「……本当か?」
 その時にはキュアンはいつもの表情に戻っていたこともあって、エルトシャンは首を傾げながらもありがたい申し出の方に気を取られた。背を向けて本を物色し出したエルトシャンを一瞥した後、再び窓の外を見つめるキュアンは無表情を装っているものの、その瞳から悲愴感が消えることはなかった。

 それから小一時間経った頃、キュアンの部屋を訪れたのはキュアンの稽古相手だった。旅装束に身を固めているのを見ても、キュアンはさして驚いていないようだ。
「お話し中のところ恐れ入ります。今から出発いたしますので……」
「やはり……動いたか」
「はい。こちらで得た情報からも間違いはないかと」
「この時期を狙ってくること自体、性根が出てるんだがな」
「何を申したところで話が通じないのですから……」
 この時ばかりは深い溜め息を吐き、渋い顔になるキュアンだったが、すぐに真剣な表情に変わった。
「……そうだな。とにかく頼んだぞ」
「はっ。髪の毛一本たりとも国境線は動かしませんので、お任せを」
「相変わらず細かいな」
「性分……というより殿下にお仕えする者の宿命でしょう」
 それまでは真面目に話していた二人だが、にやりと笑みを浮かべた。
「それでは……」
と礼を取って退出しようとした稽古相手に、キュアンは机の引き出しから小さな革袋を取り出すとそのまま投げて寄越した。
「渡すのを忘れていた。フィンが欲しがってたものだ」
「珍しいものと聞きましたが……もう手に入れられたのですか」
「フィンが何か欲しいなんて言う方が珍しいからな。まあ、国の役に立つものだからあいつらしいというか……。それよりもう馴染んだか?」
「……大人びていらっしゃいますから、そういう意味では」
 目を伏せたのは革袋をしまったせいではないだろう。キュアンも小さく溜め息を吐いた。
「そうか……。ま、薬草園に出入りするってことはあの偏屈達に可愛がられてるんだよな」
「ええ……それはもう。いずれにしろ次回よりフィン様がこちらに来られますので、一度ゆっくりお話しなさるのもよろしいかと」
「そうするよ。それより目付けに来たのにろくに説教もできなくて残念だな」
「全くです……が、きちんと引き継いでおきますのでご安心を」
「ちっ……」
 キュアンの口調は悔しそうだが、顔は笑っていた。その笑顔がいつもの癇に触るものではなく、知らぬうちにエルトシャンの口元もほころんでいた。
「それでは殿下……」
「おう。気を付けろよ」
「はい。エルトシャン様、お邪魔いたしました」
「あ……ああ」
 突然話を振られて、頷くだけのエルトシャンに向かって礼を取るとそのまま稽古相手は退出した。

* * * * *

「相当な手練と見たが……?」
 エルトシャンは表情を繕うと、再び机上に視線を落としたキュアンに声をかけた。
「ん? ああ……あれのことか。ガキの頃から一緒だが、互角にやり合えるようになったのはここ一、二年だ。ゲイボルグを持ち始めた頃ってのが癪なんだがな」
と応えると顔を上げて窓の外を見つめた。
 ちょうどその時、門から二騎駆け出していくのが見えた。見送るキュアンの瞳が翳っていることにようやくエルトシャンは気が付いた。
「また戦争か?」
 短い問いの『また』に含まれる感情を読み取ったキュアンは数拍目を閉じた。次に目を明けた時には憂いの色は全くなく、あっけらかんと答えた。
「ああ、今回は小競り合いで終わりそうだがな。まあ……あれだ。山賊が収穫期を狙って山を降りてきたってとこだ」
「…………」
 あくまでも軽いキュアンの言葉はこれまでのエルトシャンなら嫌悪しただろう。しかし、今ではそれが重さの裏返しだということがよくわかる。
「お前がよく寄宿舎を抜け出すのは……」

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