通された部屋は主からは想像もできないほど整然としていた。ベッドと窓以外の壁は天井まで届く本棚が占め、その全てにぎっしりと本が詰まっていた。エルトシャンは呆然と部屋を見回していたが、唯一乱雑に積まれている窓際の机上の本をパラパラとめくった。
「これは……」
 他と比べると格段に古びれたその本は、古めかしい条文で埋めつくされていた。見ているだけで頭が痛くなりそうな本の表紙には『グラン共和国憲法』とある。下の本も新旧混ざっているが、背表紙から全て法学関係の物だと判断できた。
「それ、やっと古本屋で見つけたんだ。王宮にあったのは水かけて台無しにしてしまったからな。まあそれだけでもバーハラまで来た甲斐があったってとこか」
「……! キュアン……」
 突然声をかけられて驚いたエルトシャンは取り落としそうになった本を持ち直したが、その代わりに小脇に抱えていた本を落下させてしまった。
「それ脆いから気を付けてくれよ。へえ……『グラン史』か……』
 拾おうと腰を屈める前にキュアンが拾い上げ、エルトシャンに渡す。片手にはティーセットが乗ったトレイを持っていた。
「すまない……」
 エルトシャンは素直に詫びると勧められた椅子に腰かけた。キュアンは素早く机の上を片付け、手慣れた様子で茶を入れると、
「小国故に人手不足なんだ。レンスター茶の新茶だ。よ〜く味わって輸入してくれ」
とカップをエルトシャンに差し出した。
 受け取ったエルトシャンはそのまま口を付けた。熱さ以上にその薫り高さに驚いた。高級茶として名高いレンスター茶を飲む機会は多かったが、その薫りはそれらの比ではない。が、それは口にせず、
「人手不足だとしても不用心ではないのか? もし俺を騙っていたらどうするんだ?」
と苦言を呈する。
「それは大丈夫だ」
 キュアンはこともなげに返答すると茶をすすった。その自信を無頓着と取ったエルトシャンは呆れるばかりだった。唖然とするエルトシャンを後目にキュアンは続けた。
「外向きの仕事をしている者は全員お前の顔を知っている」
「……え?」
「お前だけじゃなくシグルドもだ。神器の継承者はもちろん重要人物の顔は外交上知っておいて損はないからな。よほど手のこんだ変装なら騙されるかもしれんが、偽者ならそれなりに対処できる」
「……」
 エルトシャンが言葉を出せないのを続きを促していると判断したキュアンは再び口を開く。
「本人だろうが偽者だろうが神器を持たぬ人間が単独で来て全滅するようでは国の出先機関としては失格だろう? それに……お前に敵意があるとしてだ、ミストルティンを持って乗り込んだとしても、たとえ敵わないにしろ一太刀を浴びせるなり何なりはするさ。人手不足とはいえランスリッターの精鋭揃いだ。戦争となったら容赦はしない」
 不敵な笑みをエルトシャンに向けるとキュアンは冷めかけた茶を一気に飲み干した。そして、今度はからかうような笑顔でエルトシャンにとどめを刺した。
「気が付かなかったのか? 入学したての頃、日替わりで顔見に行ったって言ってたぞ」
「…………」
 ぐうの音も出ないエルトシャンに満足したのか、キュアンは話題を切り上げた。
「で、用件は?」

「へぇ……頭の固い爺さんだと思っていたが、なかなか……」
 気を取り直したエルトシャンは、シグルドからの伝言と課題の『グラン史』をキュアンに渡した。キュアンは受け取ると中を見ることもなく机の上に置いた。
「放棄するか?」
 やはり無駄足だったかとエルトシャンが問うと、キュアンはこともなげに答えた。
「いや、三年前に読んだから資料としては必要ないってことだ。ま、概略くらいなら間に合うだろう。とりあえず出すだけ出すさ。いきなり落第ではさすがに民に笑われるだろうからな」
「……本当にこれを読んだのか?」
 エルトシャンは一月ほど前の苦行を思い出し、露骨に不信の目を向ける。キュアンは苦笑とともに肩をすくめた。
「ああ……一年がかりでな。その日の分を読むまでは部屋から出してもらえなかったから最初は仕方なく……だったが、読んでみると面白かった。ここに来て……その頃の反動が色々と見えるから興味深い」
「……。お前も反動が来ているようだがな……」
 キュアンの言わんとすることを理解したエルトシャンは、心の中の感嘆を悟られないよう精一杯の皮肉でぶつけた。
「ははは……その通りだ」
 それを受けたキュアンは豪快に笑った後、
「こっちではぬくぬくと暮らしてるからな」
と付け加える。ほんの一瞬苦悩の色を瞳に宿したが、エルトシャンは気付かなかった。
 何よりとにかく離れたかった。これまで抱いていたキュアンという人間に対する印象をそう簡単には変えることはできないが、嫌悪していた分動揺も大きい。
「そういうことならもう俺は用済みだな」
 そう言って立ち上がったエルトシャンを、キュアンは引き止めた。
「今から帰っても昼飯にはありつけないだろ。食ってけよ。今日は蕎麦だしな。これは輸出してないから滅多に食えないぞ」
「……ソバ?」

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