レンスター大使公邸は士官学校の対極、バーハラの南端に位置していた。大陸一の大都市であるバーハラとは思えないほどのどかな田園風景の中に溶け込んでいるその邸宅は、外交を担う場所というよりは別荘といった方が似合っていた。
「全く……何てところにあるんだ」
 エルトシャンは何度目かわからぬ溜め息を深々と吐くと、憮然とした表情で邸宅に向かうよう馬を促した。

 公邸に到着したエルトシャンは用向きを告げると、応対に出た者はさしたる確認もしないままあっさりと彼を邸内に招き入れた。
(不用心じゃないか……?)
 心の中で呟く。その大らかさがキュアンに通じるような気がしてエルトシャンは余計に居心地が悪くなった。
「エルトシャン様……、もしかするとしばらくお待ちいただくかもしれません」
 エルトシャンを案内していた館の者が立ち止まったのは、別棟へと続く通路の前だった。
「急に来たのだから仕方がない……」
とエルトシャンは応じつつ、彼の視線を追った。
「あれは……」
 見たものが信じられないのか、エルトシャンは呆然とするばかりだった。館の者は申し訳なさそうに話しかけてきた。
「声をかけてはみますが……あの様子ではお気付きにならないかと……」
「いや、邪魔することもないだろう」
「……恐れ入ります。それではお部屋に……」
「見せてもらっても構わないだろうか?」
「え? ……あ、はい、お入りになっても大丈夫でしょう」
 館の者に続き、別棟に入る。その瞬間、ぴんと張り詰めた空気に包まれた。背中を冷汗が伝うのを感じながら、エルトシャンは目の前の光景に釘付けになっていた。
 別棟は訓練場だった。中央に槍を持ち対峙する二人。身動き一つせずに互いに穂先を向けている。そのうちの一人がキュアンだとは、実際に目にしていてもエルトシャンにはまだ信じることができなかった。
 今まで見たことのないキュアンの真剣な表情。汗も流れるに任せている。そして彼から発せられている殺気……。見ている方がいたたまれなくなる。
「……行くぞ」
 キュアンは低く呟くと一気に槍を相手の喉元に突き出す。相手はその鋭い突きを難なく躱し、流れるような動きでキュアンの足元を払いにかかる。それをキュアンが躱すと、打ち合いが続く。そして再び睨み合いに……。
 睨み合いが数分間続いた後、突然相手が左膝をついた。その瞬間張り詰めていた緊張感がぷつりと断たれる。
「大丈夫か! ……!」
 駆け寄ったキュアンに向けられた槍の穂先。そのまま相手はキュアンを睨みつけた。
「殿下……何度申せばよいのですか? その同情心が命取りになると……」
 キュアンは苦笑を浮かべると自分に向いた刃先を首元に引き寄せた。
「今日は……当てないのか?」
「……。お客様のようですから」
と相手は自分の槍を取り返し、キュアンから槍を取り上げると戸口に視線を向けた。
「……エルトシャン……」
 一瞬ばつの悪そうな表情を浮かべたが、すぐにそれを引っ込め、キュアンはエルトシャンの方に歩いていった。
「こんなところまでよく来たな。俺に会いたくなったのか?」
「ばっ……馬鹿な」
 いつもの表情に戻ったキュアンの言葉で、エルトシャンは用件を思い出すと同時に、忘れていた嫌悪感が甦った。目を奪われていたなどと知られたくなくて、露骨に憮然とした表情を浮かべる。
「シグルドの使いだ」
「ふーん……話は俺の部屋で聞いた方がいいみたいだな」
「後ろめたいことがおありで?」
 先ほどまでキュアンの相手をしていた者が鋭い視線を向ける。
「そりゃあもう……色々と」
 キュアンはにやっと口の端を上げると、着ていた上着を脱いで肩にかける。
「着替えてくる。また後でな」
「殿下!」
 すたすたと歩いていくキュアンを追いかけようとしたが慌てて立ち止まり、エルトシャンに頭を下げた。
「せっかくお越しいただいたのに、お待たせしてしまいまして申し訳ありません」
「いや……こちらが連絡もなしに訪ねたのだから……」
「それに、王子がご迷惑をおかけしているようで……重ね重ねお詫びいたします」
「いや……」
「どうか今後とも王子をよろしくお願いいたします……。それでは御前失礼いたします」
 何度も頭を下げた後、今度こそキュアンの後を追って行った。横を通り過ぎた時、エルトシャンは違和感を覚えた。
(ん……こんなに小柄だったか……?)
 キュアンと対峙している時はほとんど変わらぬ体躯に見えたが、実際にはエルトシャンよりも身長は低く、ずっとほっそりしていた。
(『気』の為せる業か……)
 ぼんやりと二人を見送るエルトシャンに背後から館の者が声をかけた。
「エルトシャン様。それではキュアン様のお部屋にご案内いたします」
「あ……ああ、頼む」

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