エルトシャンが目覚めたのは夕方近くなった頃だった。窓からさす光で現在の時刻を知り、顔面蒼白となった。
「し、しまった…」
今まで妹との約束を破ったことは一度たりとてない。どんな約束でも破ることなどエルトシャンのプライドが許さない。慌てて身支度を整え、部屋を飛び出した。しかし、ラケシスの部屋には誰もいなかった。妹のいそうな場所を片っ端から当たるが見つけることはできなかった。妹付きの侍女を捕まえ、ようやく妹の居場所を突き止めた。
「ラケシス様でしたら乗馬の練習をなさっていますが…」
「だれかついているんだろうな?」
「ええ。キュアン様のお付きの方に教わるとおっしゃってましたが」
「そうか。ならいい」
(悪いことをした)
フィンが責任を感じてラケシスに付き合っていると思ったエルトシャンは馬場へと急いだ。

 馬場へ着いたエルトシャンは驚愕した。早足とはいえ、ラケシスが一人で馬に乗っているのだ。
「エルト兄様!」
兄に気付いたラケシスが声をかける。すかさずフィンが注意する。
「しっかり前を見て下さい。柵にぶつかりますよ」
「はい」
改めて馬の方向を変え、エルトシャンの方へ向かう。
「兄様、どうなさったの?」
エルトシャンは我に返った。妹が他人の注意を聞くことなどなかったため、しばし呆然としていたのだ。
「い…いや…お前の上達に驚いていた」
「そうでしょ!フィン…殿に教えていただいてたの」
フィンが二人に近付き礼を取る。
「フィン、迷惑をかけたな。すまない」
「とんでもありません」
「ラケシスも…すまん」
「もうよろしいです。こうして馬にも乗れるようになったのですから。もし埋め合わせをして下さるのなら、今度遠乗りに連れていっていただきますわ」
にっこり微笑んで兄を見つめる。
「…わかった。約束しよう」
「今度こそ約束ですわよ。フィン、もう少し付き合ってもらってもいいかしら?兄様はもう少しお休みになられた方がよろしいんじゃなくて」
 ラケシスは手綱を引き馬を駆った。フィンはエルトシャンに頭を下げると慌てて追いかけた。一人取り残されたエルトシャンはしばらく呆然と妹を見つめていた。

* * * * *

 日が暮れようとした頃、ようやくラケシスは馬から降りた。
「フィン、今日は本当にありがとう。こんなに乗れるようになるとは思わなかったわ」
「ラケシス様の練習の成果です。才能がお有りなのでしょう」
「本当に?」
ラケシスの表情がパッと輝く。動悸を感じながらフィンは頷いた。
(あまり誉めるのは問題あるかな…でも今日一日でここまで上達されたのだから)
「ええ。ですが、明日はゆっくりお身体を休めて下さい。今まで使ったことのない筋肉をたくさん使いましたから」
「わかったわ。明後日からは練習してもいいのよね?」
「お身体さえ大丈夫でしたら…それと…」
「ちゃんと誰かに見ててもらうわ。でも、あなたの手が空いていたらお願いしてもいい?」
「私でよければお付き合いいたします」
「よかった!」
心の底からほっとした。また会える…そう思うだけで身体の疲れが飛んでいきそうだった。
「ねえ。さっき、この馬のこと『ユキ』って呼んでたわね」
「あ…失礼しました。レンスターでは『白雪』という名で呼んでおりましたのでつい…」
「いい名前ね。私もそう呼ぶことにするわ」
「ありがとうございます」

 ラケシスとフィンは馬小屋に白雪を戻した後、連れ立って建物の中に入った。フィンは挨拶をしてキュアンの部屋に向かおうとした。ラケシスは名残惜しそうに声をかけた。
「あ…今日はキュアン様、お食事にいらっしゃるのかしら?」
フィンは深々と頭を下げた。
「本当に申し訳ありません。ラケシス様も心配して下さっているのですね」
「私なんかが聞くべきことではないのでしょうが、キュアン様一体どうなさったの?」
「………」
返答に窮するフィンにラケシスは慌てて、
「ごめんなさい。困らせてしまって。こちらに来られた時に少しお姿を見たのだけど、やつれておいでのようだったから…」
「本当に大したことではないのです。病気でもありませんし…ただこのままだと…」
キュアンが聞けば怒るだろうなあと思いながらつい本音を漏らしてしまった。フィンは慌てて口を噤んだ。ラケシスはフィンの言葉の後半に気を取られたようで、心配そうな表情を浮かべていた。
(いずれわかることなのだからお話ししてもいいんだろうけど…)
大したことないとはいっても主君の不名誉なことを口にするのははばかられた。
「フィン殿」
助け舟が出た。ノディオン城の侍従長が声をかけてきたのだ。
「キュアン様にお客様が来られてます。応接間にお通ししておりますが」
「わかりました。すぐに参ります」
 フィンはラケシスに向かって頭を下げるとすぐに応接間に向かおうとした。キュアンはすぐには出て来れないだろうから、それを詫びる必要があったことと、客の顔を見ればキュアンが待ち望んでいる答えがわかるはずだからだ。
「相手は俺がしておく。フィンはキュアンを叩き起こしてこい」
「エルトシャン様…」
彼の表情で答えはわかった。フィンは笑顔でキュアンの部屋へ行こうとした。
「ちょっと待て」
エルトシャンはフィンを階段の影へ連れていき、何やら話している。フィンの顔が少し青ざめてきた。
「それは…ちょっと…」
「加減は俺もお前もわかるだろう。少しくらいなら構わんさ」
結局フィンはエルトシャンに言い包められたようだ。青ざめた表情のまま階段を上っていった。それまで蚊帳の外だったラケシスがむっとした顔で兄に問いかける。
「兄様、フィンと何を話していたのですか?」
妹の言葉のとげにも気付かず、エルトシャンは朝とは違う生き生きとした表情で、
「ラケシス、急いで着替えてくるといい。ちょっとした見物が始まるぞ。さて、あっちとも打ち合わせしなければな」
と応接間に戻っていった。ラケシスは合点がいかないながらもとりあえず兄の言う通りにすることにした。

 服を着替えたラケシスは応接間に急いだ。
「もう始まってるのかしら?」
小さくノックして応接間の扉を開けた。部屋の中の視線がラケシスに集中する。
「何だラケシスか」
「もうびっくりしちゃったわ」
「そろそろ来る頃だ」
「ここでよろしいかしら?」
「ああ、大丈夫だ」
「でもうまくいくでしょうか?」
「こいつさえしくじらなければな」
「…本気か?」
「今さら何をおっしゃるの?とにかく頑張って下さいね」
「???」
 ラケシスが質問しようとした瞬間再びノックの音がした。咳払いを一つしてエルトシャンが応えた。
「どうぞ」
扉が開いてキュアンが入ってきた。…フィンに背中を押されて。キュアンは顔面蒼白である。しかし、ラケシスの目はフィンに注がれた。いつもと変わらぬ表情だが口元が少し緩んでいる。ラケシスは初めてフィンが自分と同じ年齢なんだと実感した。キュアンはぎこちなく椅子に腰掛けた。
「よお、シグルド…」
笑顔を向けているつもりらしいが、引きつっている。それを見たシグルドは笑おうとしたが、横に座っているエルトシャンに肘を突かれて慌てて表情を引き締める。
「キュ、キュアン…長いこと待たせてしまってすまなかった…じ、実は…」
キュアンの表情が青くなったり白くなったりクルクル変わる。ラケシスはキュアンが気の毒でたまらなかった。フィンも少し心配そうな表情に変わっている。助けようと声を出しかけたが、シグルドの大きな笑い声でかき消されてしまった。
「ははは…エルトシャン、もういいじゃないか。こんなに辛そうなんだ。許してやれば」
エルトシャンは渋い表情をしていたが、すぐに笑顔に変わり、
「こっちはずっとこんな奴の相手してたんだぞ。まあ、義兄上に免じて許してやるか」
「まあ、お二人ともお優しいんですね。キュアン、友情に感謝すべきだわ」
カーテンの後ろから現われた人物を見たキュアンは飛び上がった。
「エ…エスリン…」
待ち望んでいたものが目の前にいる…。キュアンは駆け寄って抱き締めた。
「私が信じられなかったの?」
「そんなことはない…でも…」
俯いたキュアンの頭を撫でながらエスリンは微笑んだ。
「お返事が遅れたお詫びに来ちゃった…」
「嬉しいよエスリン…」
先ほどまでの憔悴が嘘のようにキュアンは満面の笑みを浮かべている。周囲の人間は毒気を抜かれたように呆然としている。
「こんなことならもっと焦らしてやればよかった…」

戻る次へ本箱へ本棚へ