ラケシスは、珍しく自分で目が覚めた。今日はエルトシャンの公務がなく、一日中乗馬の練習につきあってもらうことになっていたからだ。しかし、朝食を摂りに食堂に向かう途中で見てはならないものを見てしまった。
「…ラケシス…」
「兄様、ど…どうなさったの!?」
思わず声が上ずってしまう。それは最愛の兄エルトシャンだった。光り輝いていた彼の金髪はつやを無くし、目にも精彩がない。慌てて兄に駆け寄り手を貸そうとする。
「ラケシス、すまんが、少し寝かせてくれ…」
「じゃあ、乗馬の練習は?」
「ひ…昼からにしてくれないか…」
「えーっ!!」
膨れっ面をしてみせても、どうしようもなかった。ふらつきながら自室に向かう兄を呆然と見送りながら、ラケシスは心の中で叫んだ。
(キュアン様のバカっ!!)

 朝食を終え、諦めきれないラケシスは馬小屋に足を運んだ。
(やっとこの馬に乗れると思ったのに…)
美しい白馬に跨がりさっそうと駆ける自分を想像し、口元がほころぶ。しかしすぐに膨れっ面に戻り、馬小屋と馬場で働く者の様子を見る。皆忙しそうに動き回っている。
(やっぱり、頼むのは無理よね)
 実際はラケシスが依頼すれば誰もが何をおいても乗馬を教えるのだが、それには抵抗があった。仕事を中断させるのは悪いという気持ちと、自分が馬に乗りたがっているのは道楽だと思われていることへの反発もあった。ただでさえ、剣を練習することに眉をひそめている人間が多い。もし、他の人に乗馬を教われば「王女らしく」と念仏のように繰り返す連中の格好の攻撃目標となる。
(だから兄様じゃないとだめなのに)
 エルトシャンは剣も「護身のため」と積極的に稽古をつけてくれる。ただラケシスは護身術で終わらせるつもりはないが流石に口には出していない。こっそり上達して皆の鼻を明かしてやるつもりでいた。馬に乗るのも計画の一端である。エルトシャンなら乗馬を教えても誰にも文句は言われないし、何より最近忙しかった兄をやっと独占できる―それが一番の楽しみだった…のだが。
「あの様子じゃあ、お昼に起きるなんて無理だわ。…こうなったら」
二番目の楽しみまで壊されたくない…ラケシスは白馬を外へ連れ出した。

* * * * *

 昨夜の酒盛りの後片付けをし、キュアンが熟睡しているので邪魔にならないように部屋を出ようとしたフィンは、換気の為に窓を開けていたことを思い出し、慌てて窓を閉めた。春とはいえ、まだ冷える。
「キュアン様に風邪を引かせるところだった」
カーテンを引こうとした時、フィンの目に白馬を引いているラケシスの姿が入った。いわゆる乗馬スタイルに身を包んでいる。ラケシスは馬場とは全然違う方向に向かっている。
「どこへ行かれるんだろう?鞍もつけずに…!…まさか…」
キュアンを起こさぬよう部屋をそっと退出したものの、扉を閉めた途端、よその城だというのに全速力で走っていた。

 ラケシスは城を抜け出そうとあちこちの出口を見に行ったが、ラケシス一人ならともかく、馬まで連れて出られそうになかった。以前ラケシスが抜け出してから警備が厳しくなったのだ。諦めて人気の少ない裏庭で練習することにした。やっと馬に乗ることができる―喜々として馬の背に跨がろうとしたラケシスだったが、それまで大人しかった馬が急に暴れだし、ラケシスを引きずって歩き出そうとする。
「ま、待って。お願いだから止まって!」
ラケシスはしばらく踏ん張っていたが、とうとう力つきて手綱から手が離れる。馬が駆け出そうとした瞬間、
「ユキ!」
その声で馬は止まった…だけでなく、こちらを向いて走ってくる。
(この声は…)
 すぐにわかった。昨日から頭から離れない声。見られたくないところを見られてしまったため、なかなかすぐには振り向けない。でもいつまでもこのままではいられない。逃げ出したかったが、そういう訳にもいかず、ラケシスは声の主の方に体を向けた。そしてとびっきりの笑顔を見せる。大抵はそれですんでしまう…はずだった。相手は一瞬たじろいだ様子だったが、逆にこちらが驚いた。馬が親しそうに彼に頬ずりしていたのだ。彼は手綱を引いてラケシスに近付いて来た。
「ラケシス様…。こんなところで何をなさっているのです?」
表情に非難の色が混じっている。ラケシスはばつが悪そうに、
「何って乗馬の練習ですわ」
「何もこんなところで…お一人では危険すぎます。誰かについていただかないと…それに鞍もつけずにどうなさるおつもりですか?」
「あっ…」
正しいことを言っている。それはわかっているのだが、畳み掛けるように言われ、少しカチンとくる。気恥ずかしさも手伝って思わず嫌味が口に出た。
「だって兄様と約束していたのに…」
「!…申し訳ありません」
その言葉を聞くや否や深々と頭を下げる。ただの八つ当たりなのにここまで真剣に謝られると良心が痛む。
「…ごめんなさい。こんなこと言うつもりじゃなかったの」
ようやく頭を上げたフィンはほっとした表情を浮かべながらも、
「ご事情はわかります。ですが、やはりお一人では無理ですよ。馬丁に見てもらうべきです」
「仕事の邪魔はしたくないんですもの…どうせ遊びだと思われてるし」
(何も考えておられない訳ではないんだ…。ただちょっとずれてらっしゃるけど)
 フィンはラケシスがただのわがままなお姫様じゃないとわかり、しばらく考えていたが、
「私でよろしければ、乗馬を教えて差し上げますが…」
と切り出した。ラケシスは最初は不安を覚えたが、昨日のことを思い出し、申し出を受けることにした。
「本当に?では早速馬場に向かいましょう」
心なしか気分がうきうきし始めた。駆け出すラケシスをフィンと馬は慌てて追いかけた。

* * * * *

 馬場へ向かったラケシスとフィンは様子が慌ただしいのに気付いた。馬丁達が駆けずり回っている。二人に気付いた馬丁の一人が駆け寄ってきた。
「どうなさったのです?その馬がいなくなったので探しておりました」
ラケシスは馬丁に向かってにっこり微笑みながら、
「ごめんなさい。散歩に連れ出したの。黙って連れ出したことは謝ります」
「そんな…ラケシス様や馬がご無事なら構いません」
「ありがとう。…ところで、乗馬の練習をしたいのだけど、馬場を使ってもいいかしら?」
「もちろんですとも!では、私がお供いたしましょうか?」
「それには及びませんわ。フィン殿に見てもらうことにしましたから」
「この方ですか?」
馬丁は一瞬不服そうな表情を浮かべたが、昨日の現場を見ていたため、フィンの腕前を承知していた。それに姫君の満面の笑顔に逆らうことなどできはしない。
「かしこまりました。他の者には私から言っておきますので、どうぞご自由にお使い下さいませ」
「よろしくお願いするわね」
そう言ってラケシスは笑顔をより一層輝かせる。馬丁は弾かれたように駆け出していった。
(さっきはどうして失敗したのかしら?おかしいわね)

 ようやく乗馬の練習が始まった。今度はちゃんと鞍もつけ、颯爽と駆け足…そうはうまくいかない。馬に乗るだけでも難しい。フィンがちゃんと馬をなだめていることもあって抵抗もなく、若い馬のためラケシスの身長でも苦労せずに乗れるはずだったが、結局一人で跨がることはできなかった。
(もうやめよう…)
ラケシスは何度もそう思ったが、フィンが真剣に教えてくれるのでなかなか口に出せずにいた。ラケシスが乗馬に嫌気がさしていることに気付いたフィンは、
「とりあえず、馬に乗ってみましょう」
と手を差し出した。ラケシスは笑顔でその手を取った。
 馬の上から見た世界は新鮮に見えた。先まで見上げていたフィンも見下ろすことができる。
「本当に綺麗な髪…」
無意識のうちに手を伸ばしてしまった。髪に触れた瞬間、なんとも言えない感覚が体中を駆け巡った。フィンが顔を上げたので、
「ゴミが…」
と慌てて取り繕う。フィンも心なしか顔を赤らめている。
「あ…ありがとうございます。それでは少し歩いてみましょうか」
と引き綱を操ると馬がゆっくりと歩き出した。思っていたより振動が大きい。
「大丈夫ですか?背筋はできるだけ伸ばしていて下さいね」
本当にぴったりのタイミングで声をかけるフィンにラケシスは心から感心した。
(もしかして彼って本当にすごいのかも)
 フィンの指導の甲斐あってラケシスの乗馬も段々様になってきた。そうなるとラケシスも欲が出てくる。笑顔をフィンに向けて話しかける。
「ねえ、一度思いっきり走ってみたいわ」
「それはまだ早いです。早足を完璧にマスターなさって下さい。あ、馬を完全に止められるようになるのが先決ですね」
(まただめだった…)
落胆はしたが素直に頷いた。自分でも不思議に思う。普段だったら決して引かないのに。
「ラケシス様、お疲れになったでしょう。もうお昼ですし、この辺で…」
「そうね」
もう少し乗っていたかったが、言う通りにする。ただし、少しは成長したようだ。
「お昼からもお願いしていいかしら」
笑おうと思った訳ではないが、自然と笑顔が出た。フィンは赤面しながら笑顔を返し、頷いた。

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