笑顔のちから

 このところ部屋に閉じこもりがちで溜め息ばかり吐いている主君をフィンは正直いって持て余していた。レンスターでならまだいい。キュアンの用事のない時は他にもする仕事がある。だが、ここはアグストリア諸公連合のノディオン王国。キュアンは父王の書状をノディオン王に渡すという名目で訪れていたが、その目的はとっくにすましていた。実はキュアンはノディオンの前に訪れた国での用向きの返事を一日千秋の思いで待ちわびていたのだ。
 キュアンがノディオンの王子エルトシャンと親友とはいえ、フィンは気が引けていた。キュアンはノディオン王やエルトシャンからの様々な誘いをことごとく断っていたからだ。事情を知る彼等は気晴らしになるように何かにつけ声をかけてくれる。フィンはそれが有り難くもあり、申し訳なく思っていた。そしてこの陰鬱な部屋でキュアンと二人きりなのにも参っていた。何もすることがないのだ。もう何度も荷物の整理はした。部屋の掃除も、ベッドメイクも。かといって用もなく自分勝手に出歩く訳にもいかない。随行していた者もフィン以外はレンスターに帰してしまっている。相談相手もいない。とうとうフィンはたまらなくなって声をかけた。
「キュアン様、ずっとお部屋に籠られていたら気が滅入ってしまいます。外の空気を吸いにお出になられてはいかがですか。こちらのお庭は素晴らしいそうですよ」
キュアンはけだるそうにフィンを見て言った。
「…はあ…。庭に興味があるのはお前の方だろう。俺のことは構わずに行ってくればいい。今は他のことが考えられないんだ。はあ…」
「それならレンスターにお戻りになってください。せっかく客人として迎えていただいているのに、キュアン様がこのようなことではこちらの方々にご迷惑です」
「…お前もはっきり言うなあ…でもここの方が近いんだぞ。それにレンスターに戻ったらまた出てくるの大変だし…」
普段のキュアンとは全く異なる物言いに、フィンはこれ以上説得するのを諦めた。
「わかりました。もう何も申しません。私はお言葉に甘えてお庭を見せていただきます」

* * * * *

 ラケシスは密かに楽しみにしていた。この城に滞在しているレンスターの王子の従者が自分と同じくらいの年齢であると兄エルトシャンから聞かされていたのだ。
「でも、男性でしょう。私、お兄様のような方以外は興味ありませんの」
口ではそう言いながら心の中では気になって仕方がなかった。周囲は大人ばかりで自分と同じくらいの子供をラケシスはほとんど見たことがない。興味を持つのは当然だろう。
 それなのに―。客人のキュアンはずっと部屋から出てこず、食事にすら現れない。
(これでは彼に会えないじゃない…それよりキュアン様、何のためにこちらにいらしているのかしら?)
父や兄はキュアンの態度に怒ってはいないようだが、ラケシスは少し腹を立てていた。何度か会ったキュアンを兄ほどではないものの評価していたが、今回のことで評価をぐっと下げた。病気かもと心配した分なおさらだった。
 ラケシスは部屋を出て厩に向かっていた。キュアンが土産に持ってきた白馬を非常に気に入っていたからだ。ラケシスの望みが叶い、まだ若いその白馬はラケシスのものになった。初めて自分の馬を持ったラケシスは、喜んで馬の世話をした。
(そろそろ名前を決めないと…)
と考え込みながら歩いていたため、前方で何が起きているのか気付くのが遅れた。
「ラケシス様!危ない!」
馬場から調教中の馬が飛び出してきたのだ。まっすぐにラケシスの方に向かってくる。ラケシスは身が竦んで動くことができなかった。
(もうだめ…)
 ラケシスは目を閉じた。しかし、その瞬間はなかなか来ない。恐る恐る開いたラケシスの目に飛び込んだのは馬の蹄、そして光り輝く青―。それは暴れ馬を乗りこなしている少年だった。ラケシスの視線は彼に釘付けになっていた。
(綺麗…)
少年の髪の色は明るい青色だった。その髪が太陽に照らされて輝いている。この国では青い髪は珍しかった。
(シグルド様よりも綺麗な青…)
そんなことを考えながら、身動き一つしないので、馬に乗っていた少年は馬から飛び下り、ラケシスの元に駆け寄った。馬はもう大人しくなっていた。
「お怪我はありませんか!?」
ラケシスより少し背の高い少年の瞳は髪と同じ色をしていた。今度は彼の瞳から目をそらすことができなくなった。何も答えないラケシスに、少年は不安が募る。
「あ、あの…」
「ラケシス様!申し訳ありません!」
馬丁が大慌てで駆け付け、ラケシスに謝罪する。それでも呆然としているラケシス。
「失礼いたします」
すっと抱きかかえられた。視界が移動したことでようやくラケシスは我に返った。
「きゃあ!下ろして!」
その声で少年は慌ててラケシスを下ろした。心配そうな目でラケシスを見つめる。
「大丈夫ですか?」
「ええ、もう大丈夫です。びっくりしてしまって…心配をかけました」
と微笑んでから馬丁の方を振り返り、
「あなた達も気にしないでちょうだい。それよりまたあの馬を見たいの。いいかしら?」
「え、ええ。もちろんですとも」
「それでは私は失礼します」
少年は持っていた手綱を馬丁に渡して軽く礼をし、立ち去ろうとしていた。ラケシスは慌てて呼び止める。
「あなたはキュアンさまのところの…」
「申し遅れました。私はキュアン様にお仕えしているフィンと申します」

 ラケシスは愛馬の世話をしていたが、心はそこになかった。
(本当に綺麗な青…)
先ほどの情景が脳裏を駆け巡る。太陽の光を受けて輝く青。心配そうに見つめる少し曇った青。目の前にあった空のような青。胸が締め付けられるような感じがずっと続いていた。無意識のうちに溜め息を繰り返す。
「どうした?ラケシス。具合が悪くなったのか?」
「あ、エルト兄様。何でもありませんわ」
「聞いたぞ。恐かっただろう?」
「いえ、キュアン様のお付きの方に助けていただきましたから…」
ラケシスは何故か『フィン』という名を口にしたくはなかった。そのかわり心の中で何度も繰り返し呟いていた。エルトシャンは妹のいつもと違う様子が気になったが、まだ恐怖から覚めていないのだろうと思った。
「馬に触っていて大丈夫なのか?」
「馬には罪はありません…。それにこの馬は私の宝物ですから…あ!私ったら、ちゃんとお礼を言ってませんでしたわ。兄様、どうしましょう」

* * * * *

 フィンはぼうっとしながら庭を見つめていた。評判通りの美しい庭だったが、今のフィンにはその美しさも色褪せて見えた。庭に咲き乱れている花よりも美しい花―。その微笑みが頭からどうしても離れなかったからだ。そしてその花を抱きかかえてしまったこと。今さらながらとんでもないことをしたと頭を抱えていた。
「無礼だとお怒りではないか…。キュアン様にもご迷惑をかけてしまうし、どうしよう」
「フィン」
自分を呼ぶ声に顔を上げる。向こうから黄金の光がやってくる。逆光のせいなのかそれがエルトシャンとラケシスだとわかるのにしばらく時間を要した。気付いてから慌てて立ち上がり二人の元に駆け寄った。
「ラケシス様、先ほどは本当に失礼いたしました」
「どうして謝るのです?私の方こそろくにお礼も言わずにごめんなさい。それから本当にありがとう」
「俺からも礼を言う。すまなかったな」
「いえ、とんでもありません」
「さすがはレンスターの人間だな。その年で暴れ馬に飛び乗るなどなかなかできんぞ。ところでキュアンはまだあの調子か?」
「…はい。本当に申し訳ありません。せっかくお気遣いいただいているのに…」
「気にするな。お前が謝ることではない。あいつの変わりようにこちらも楽しんでいるところもあるからな。…だが、そろそろ限界だろう。今夜酒でも持って押しかけるから、そのつもりでいてくれ」
「はい。かしこまりました」
「それとどうせ主人があんな状態だ。あいつにつきあってやる必要はないぞ。…まあ俺がそんなことをフィンに言う権限はないが、あいつがあれでは仕方あるまい。この城の中なら遠慮せずに自由に行動して構わん。…もっと早く言ってやればよかったな」
「私のことまで気にしていただいてありがとうございます」
「キュアンに貸しにしておくさ。それにしてもあいつは何をあんなに心配してるのか…俺には理解できんな」
そう言い残してエルトシャンは去って行った。
「あ、あの…」
それまで会話に加わっていなかったラケシスが声をかけてきた。
「はい?」
「本当に…本当にどうもありがとう!」
極上の笑顔を残し、ラケシスは兄の後を追いかけていった。再び一人になったフィンは呆然と立ちすくしていた。

 翌日―。
 言われていた通り、朝になってキュアンの部屋に入ったフィンはしばし唖然とした。部屋には空の酒瓶十数本と眠りこけているキュアン、そして疲れ果ててテーブルに突っ伏しているエルトシャン。フィンは慌ててエルトシャンを助け起こす。
「エルトシャン様、大丈夫ですか!?」
「あんなに愚痴られるとは思わなかった。こっちまで滅入ってくる。フィン、よくこんなのにつきあってられるな…大丈夫だ。自分で戻る」
ふらふらと立ち上がったエルトシャンはフィンの助けを断り、よろめきながら去って行った。残されたフィンは部屋の惨状に溜め息を吐いたが、
「仕事があるだけましかなあ」
と寝ぼけるキュアンをベッドに移し、片付け始めた。

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