ノルデン砦を制圧した解放軍は翌朝直ちにレンスター城への攻略に取りかかった。ノルデン砦の攻防で解放軍の戦力はかなり疲弊していたが、立て直す時間的余裕はなかった。レンスター城の敵戦力との差は歴然としている上にアルスターから援軍が来れば解放軍の壊滅は目に見えている。レンスター城の確保が解放軍の命運を握っている。そして…もとより立て直す兵力など解放軍にはない。
 肉体的には疲労の極地に達しているが、間近に見えるレンスター城だけが、解放軍の士気を支えていた。ずっと追われ続けていた彼らにとってやっと拠点が手に入る。その思いが兵士達の歩みを進める原動力だった。しかし、彼らを待ち受ける敵軍は生半可なものではなかった。これまで戦ってきた相手とは比べ物にならない緻密な布陣に動揺が走る。それだけでなく、天才軍師サイアスの参戦で敵の士気が一気に上がった。それに反比例して必死で目の前の敵を倒していた解放軍の気力は奪われる。最悪なことに前方からは攻勢に転じた大部隊が川を渡り、後方からも解放軍の守備網を突破したゲルプリッターまで襲いかかってくる。
 進退極まった中、ひたすら忍耐の時は続く。絶望すら感じる余裕はない。それが幸いして少しずつではあるが、勢いを盛り返し始める。やがて敵の士気が目に見えて衰えていく。原因がわからぬため、一瞬躊躇したが敵軍の慌てようを見たリーフは総攻撃を号令した。
 長い戦いの末、解放軍はようやくレンスター城の城門を落とした。敗残兵の多くは城に逃げ込んだため、城内に残る敵はまだ相当数いると考えられる。緊張を解くことはできないが、突入は翌日に持ち越されたため、交替で束の間の休息を取ることになった。

「これが…レンスター城…?」
 城門をくぐり抜けたフィンは呆然と立ち尽くした。遠くで見るレンスター城はいささかも変わりがなかったのに、実際に近くで見ると全く別の城のような様変わりに衝撃を受けていた。けばけばしいの一言に尽きる。フリージ家の支配を知らしめるためか贅を尽くしたといえば聞こえはいいが、単に華美な物の寄せ集めでしかない。庭園では大輪の薔薇が原色を撒き散らしていた。
「お父様…」
 遠慮がちにかけられた声でフィンは我を取り戻した。
「ナンナか…」
「お父様も早くお休みになって下さい。明日も早いと聞きました」
「…そうだな。しかし確認したいことがある。それからにしよう。お前こそ早く休みなさい。お前が休まないと他の者は休み辛い。リーフ様にもそのようにお伝えして休んでいただくように」
「でも…」
父の身を案じるナンナはなかなか引き下がらない。フィンは強情な娘に一瞬苦笑を浮かべたが、すぐに真顔に戻りナンナの瞳をじっと見つめて諭した。
「ナンナ…。明日は今日よりもっと過酷な戦いが待ち受けている。少しでも休んでおきなさい。でないと明日の戦いには連れて行かない」
「お父様…わかりました。とりあえず先に休ませてもらいます。でも後できっと休んで下さいね。お願いしますから…」
 懇願する瞳に圧倒され、フィンは思わず頷いた。ナンナの瞳がぱっと輝く。フィンは照れ隠しなのかナンナの肩を二回ほど叩き、その場を後にした。

 一人になったフィンは城の周辺を感慨に浸っている風を装ってくまなく歩き回った。主だった出入口はすでに封鎖され、隠し通路の中でも敵に把握されているものは周辺の村人の協力も得て塗り込められた。しかし、それが全てではない。全ての封鎖を進言してもよかったが、それではかえって敵に隠し通路の存在を知らせてしまう可能性もある。さらに味方にも知らせるべきではないとフィンは考えていた。
 ドリアスでさえ…今もレンスター城にいるというゼーベイアでさえ知らない隠し通路をフィンは知っている。それは王族を逃がすためにごく限られた人間にのみ知らされる最高機密の一つである。知らされた時は機密に携わる緊張感と喜びに打ち震えたが、使われることなどあり得ないと確信していた。
「使わないに越したことはないが…」
 何ケ所か秘密の出入口を確認し、使用された痕跡のないのを見てほっとする。そして最後に最も重要な場所へやって来た。外壁を何重も覆っている蔦をそっと払うと、小さな扉が現れた。十三年前、リーフと二人でくぐり抜けた小さな扉。あの日のことが次々と頭を過り、このまま中に入って敵将グスタフを討ち取ってしまいたいという衝動に駆られた。
「駄目だ…」
激しく頭を振り、その考えを追い払う。自分には暗殺どころか内偵する能力はない。それにレンスターを取り戻すにもそれ相応の手順を踏まねばその価値は激減する。
 フィンは誘惑から逃げるように蔦を元に戻し、立ち去ろうとした。しかし、誘惑はフィンを解放しない。
「卑怯者と言われても…私のことなどどうでもいい。グスタフさえ倒せば…レンスター人とは戦わずにすむはず。リーフ様にはレンスター人を手にかけてほしくないのだ…」
我ながら感傷的だと呆れながらも、城にいるレンスター兵を見捨てたのだという悔恨の念がますますフィンを誘惑の迷路に追い込んでいく。
『あなたと私とでは仕事が違うのです。あなたは王子をお守りし、私はこの城を守る…王子が帰って来られるその日まで。フィン様…さあ行かれよ!互いの使命を果たそうではありませんか』
 城を脱出する時にゼーベイアと交わした言葉が脳裏に響く。それはフィンを絡め取ろうとした誘惑の蔓を断ち切っていった。
(…そうだった…。王子をこの城にお連れしたと言えるのはリーフ様が玉座に座られてから…いや、帝国をトラキアから追い出してからだ。危うく本分を忘れるところでした。ありがとうございます…ゼーベイア将軍)
心の中で感謝しながらフィンはふと足元に目をやった。青い小花が城に寄り添うように咲いている。
「…全然気付かなかった…。もうそんな季節か…」

 普段なら決して見過ごすことのないその植物の存在すら気付かなかったことにフィンは愕然とした。常に種を持ち歩き、滞在先で育てていたほどだった。しかし、種をフィアナ村に置いたまま出て来てしまい、その姿を見るのは数ヶ月ぶりなのに何年も見ていないような気がした。そして青い小花は先程まであれほど感じていたレンスター城への違和感を消していく。
「ああ…ここはやはりレンスターなのだ…」
改めて実感する。自分でも可笑しいと思いながら、小花の作り出す道に誘導されるように歩き出した。そして東の城壁に出たフィンは息を飲んだ。
 青い絨毯のように群生した青い小花は咲き乱れ、風にそよいでいる。刹那躊躇ったが、フィンは絨毯を踏みしめ進んでいった。中ほどまで達した頃、何かが光ったような気がして顔を上げた。見えるはずのないものが見え、駆け出そうとするが、北東からの潮風が正気に返らせる。
「そうだ…今は…」
立ち止まったフィンは遠くを見るように風上の方角に目を向けた。城壁に阻まれて見ることはできないがその先に思いを馳せる。
 テラスの上から常に海の向こうを見ていた人…そして海の向こうにいるはずの…まだ見ぬ我が子。
(…まだ…これからだ…)

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