「シグルド様と行動を共にされていたキュアン様達がお帰りになってから、フィン様には数多くの縁談が持ち込まれました。それを全てキュアン様がお断りになられた。『フィンにはもう決まった相手がいる』と。そのお相手がどなたであるかは決して明かされなかった。理由はわかりません」
「レンスターに戻られたフィン様は、里帰りされていたノディオンのグラーニェ王妃とアレス王子の許を頻繁に訪ねておられた。…もともとグラーニェ様とフィン様は親しかったので、ラケシス様との仲はあまり関係ないのかもしれませんが」
 一言も聞き漏らすまいと真剣な表情で話を聞くリーフとナンナ。ドリアスは二人に半ば気押されながら、言葉を押し出す。
「…フィン様の父君の名は…デルムッド様とおっしゃいます」
「え!…では…」
ナンナの瞳に光が戻った。
「それすら偽装であり、デルムッド様の存在に疑問を持っている者もいるようですが…。しかし、フィン様にとっては大切な名前であるのは確かなのです。どんな理由があれ、その名を利用することはないと私は考えています」
 ナンナは頷いた。父の不器用さは涙が出るくらい知っている。ドリアスの話では確たることはわからなかったが、ナンナの中にある『答え』を覆い隠していた疑惑の刺が少しずつ抜けていくのを感じていた。しかし、どうしても抜けない刺がある。
(では、私は…?)
 口にしても無駄なことはナンナにもよくわかっている。それを抜くことができるのはただ一人なのだから。その刺の痛みから解放されることはないだろう。しかし、ナンナは自覚したことで、かえって冷静になれた。
 リーフとセルフィナはナンナの瞳から焦燥の色が消えたのを見て安堵の表情を浮かべた。自分を見つめる視線に気付き、ナンナは苦笑した。
「お話しして下さってありがとうございました。…まだ知りたいことはあります。ですが、それはいつか父と…母に直接聞いてみようと思います。今まで恐れるだけで正面から向き合っていませんでした。考えれば考えるほど不安になって…。自分で自分の心を追い詰めてしまっていたのですね」
「ナンナ…よかった」
「ナンナ様…」
 ナンナの言葉にリーフとセルフィナは笑顔で応えたが、ドリアスは辛い表情を崩さなかった。そして、一言ずつ言葉を絞り出した。
「もう一つ、聞いていただきたいことがあります。我々は…私は…リーフ様の安全を守るため、ナンナ様の存在は邪魔なものだと考えておりました。ラケシス様がいらっしゃればまだ安心でした。ですが、フィン様お一人で二人の幼子をお守りするのは無理だと…リーフ様だけを連れてアルスターから脱出するようにと…そうフィン様に命令いたしました」
「お父様!」
ナンナには酷な内容にセルフィナは抗議した。ナンナは唇を噛んで俯いた。
「ナンナ様を傷つけることは承知している。私が懺悔したいわけでもない。だが…ナンナ様には知っておいていただきたいのです。フィン様は…ナンナ様を手放さないがために屈辱を敢えてその身に受けられたのだと」
「…え?」
「事実がどうであれ、一言否定すれば表向きはすんだはずです。ですが、そうはなさらなかった。我々は…人としての心を見失っていた…。確かに国を失い、混乱と絶望の中に…我々はいました。レンスター再興のためなら全てを犠牲にすることも厭わない。その思いはレンスターに連なる者であれば皆持っていたはず。それが…何をしてもいい…と思うまで追い詰められるのにはさして時間はかかりませんでした。実際、先鋭化した一部の者は私やフィン様の説得にも耳を貸さず、ブルーム暗殺を企て、当然のごとく失敗しました。その結果、アルスターまでもがフリージ家の支配下に置かれることに…。アルスターの日和見的な姿勢に私は未だに憤りを感じておりますし、いずれはアルスターも帝国の支配下となることは時間の問題だったでしょう。しかし、国を追われた我々を受け入れ、匿ってくれたことも事実なのです。アルスターのことを…他人のことを慮れないほど我々は…」
 ドリアスは拳を握り締めて俯いた。リーフは彼の苦渋の表情を見て取って、労るように声をかけた。
「ドリアス…もういいよ…」
「いいえ…お二人にはお辛いでしょうが、聞いていただきたいのです。ブルーム暗殺に走ったのは少数でしたが、程度の差こそあれ、我々の気持ちの中にもあったのです。…ラケシス様はそんな状態に陥った我々を常に励まして下さいました。ご自身もアグストリアという祖国を失われたというのに。影で何を言われているのかご存知のようでしたが、笑顔を絶やされることはなかった。…その笑顔を…我々は踏みにじってしまったのです。お二人のほんのわずかな幸せすら妬ましかったのかもしれません。私にセルフィナが残ったように、全員が全てを失った訳ではない…皆少しなりと持っていたはず。それなのに、レンスターのために…その言葉で全てを犠牲にすることを強いたのです。結果、ラケシス様は…イザーク行きを決意され、フィン様はナンナ様を預かりものとせざるを得なかった…。そうしなければ、我々はフィン様から娘であるナンナ様を取り上げていたでしょう。ノディオンから預かった…だから守り通す…そんな理由を付けなければお手元に置けなかったのです。我々にもう少し心が残っていれば、預けて下さったのかもしれない。あの時のフィン様の叫びを私は忘れることはないでしょう。『あなた方は私がリーフ様をお守りするようにこの方を守って下さるのか!』と。我々は何も返せませんでした。リーフ様をお守りするためならナンナ様を帝国に差し出したでしょうから」
「お父様!」
 ドリアスが紡ぐ残酷な言葉にまず悲鳴を上げたのはセルフィナだった。当時の経緯はリーフとナンナの世話をしていたこともあり、直接見聞きはしなかったが、肌で感じていたからだ。殺伐とした雰囲気。その中で孤立していくラケシスと守ろうとしないフィン。フィンへの憧憬が深い分、幻滅が怒りに変わるのは容易だった。想像以上にフィンとラケシスが追い詰められていたことをこの時初めて知り、フィンに投げ付けた言葉がどれほど的外れであるか…思い知ったセルフィナは唇を噛んで俯いた。
「ドリアス伯爵…ありがとうございます。」
「ナンナ様…」
 ナンナの穏やかな声にセルフィナは驚いて顔を上げた。リーフもドリアスも驚きの表情を隠さない。
「ご自身にとっても辛いことでしょうに、私のために…。伯爵のおっしゃることよくわかります。私もずっと不思議に思っていました。何故、お父様はリーフ様と二人でアルスターから落ち延びなかったのか。…私は良くも悪くもノディオンの王家に連なる者。そうでなければ…きっと私を置いて行ったでしょう」
寂しげな微笑を浮かべて呟くナンナ。
「そうでしょうな…。誤解なきよう申しておきますが、それはあなたのお命を守るため。あえてあなたまで追われる必要がないからですぞ」
ドリアスの諭すような言葉でナンナの頬に赤みが差した。
「あなたの望まれる話ではなかったと思います。しかし、あなたがフィン様の側におられる意味はおわかりいただけたのではないかと…」
「はい」
 ナンナは明るい瞳で答えた。ほっとした雰囲気に包まれる。セルフィナの表情も元に戻っていた。
「あ!…そうでした。夕食の準備ができたので、お呼びに来たのでしたわ」
「みんな待ってるね。急がないと。さあ行こう、ナンナ」
「ええ!」
 連れ立って建物の中に入って行ったリーフとナンナを見送ったドリアスとセルフィナは、顔を見合わせると後に続いた。

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