砦の物見台で、リーフとナンナは前方にそびえるレンスター城を見つめていた。敵の手に落ちたとはいえ、威風堂々としたその姿はいささかも変わりがない。感慨深げな表情のリーフを少し羨ましく思いながら、ナンナはその光景を脳裏に刻み込んだ。
「あれがレンスター城…」
「そうだよ。僕達はやっとここまで来たんだ」
「王子、お見事です。困難な状況の中、よくぞ打ち勝たれました。祖国レンスターはもう目の前です」
 ドリアスが現れ、リーフを労った。感無量といった表情でレンスター城に視線を移す。
「レンスター…わが祖国…」
「ナンナ様はもとより、王子はまだ幼かった故、覚えておられぬかもしれませんが…」
ドリアスの言葉に、リーフは一瞬空を仰ぎ記憶を引き出した。そして辛そうに言葉を紡ぐ。
「…覚えている…。あの夜の光景は目に焼き付いている。絶対に忘れることはないだろう」
「あの夜のこと?」
「レンスターが落ちた夜…。空は舞い上がる炎で真っ赤に照らされ、無数の竜が空を覆っていた…。僕はフィンの腕に抱かれてただ呆然と空を見てた。初めはよくわからなかったけど…心のどこかで綺麗だと思う気持ちもあったような気もする。でも…顔に暖かいものが落ちてきて、ふと上を見たら…あんなに悲しい思いをしたのは生まれて初めてだった」
 ドリアスの意識もその夜へ飛んだ。人生最悪の夜。その前後には立て続けに悪夢のような出来事に襲われ、自分を失いそうになったことも多々ある。それを押しとどめてくれたのが、無邪気な笑顔を自分に向ける主君の遺児リーフ、そしてナンナであった。その笑顔は十有余年を経てなおも変わらず邪心がなく、人を惹き付けてやまない。
(この笑顔を守って下さったのは他ならぬフィン様だ…)
それに自分はどう報い、償えばいいのか。それを考えながらドリアスは口を開いた。
「フィン…には辛い役目を押し付けました。…だが、彼以外に王子を託せるものはいなかった。王子さえご無事ならいつの日か必ずレンスターは甦る…そう言い聞かせて焼け落ちる城から脱出させたのです」
「フィンは何も言わなかったけど…何も言えないくらい悲しかったんだ。そして涙が凍り付いたみたいになって…。あの日を境に泣くことも…笑うことすら忘れてしまったみたいだ」
「彼の心は…いや、我等は皆、レンスターに心を置いてきたのです…。余りにもそれは突然で悲惨な出来事で…心がついてこれなかった」
「でも…それでもフィンは僕達の為に笑おうとしてくれた…」
 ナンナも固い表情で頷いた。
「小さい頃はフィンが少しでも微笑んでくれたら、それだけで嬉しかった。でも…最近になって何となくわかってきたんだ。フィンは僕達を安心させるために無理して笑ってくれてたんだって」
「それに気付いた時は無力感に苛まれました。私はお父様に何もして差し上げられないのかと。でも…今は無理して笑うことも必要だったのかもしれないと…そう思うようになりました」
「ナンナ様のおっしゃる通りです。あの方はご自分の感情を無視することで、あの辛い状況を…将来の不安を乗り越えようとなさいました。あなた方がおられなければ、フィン様は決して笑おうとはなさらなかったでしょう。最初は義務だったかもしれませんが徐々にそれが自然となった…今のフィン様を見ているとそう感じます」
「ドリアス…?」
 ドリアスのフィンに対する呼び方が変わったことに気付いたリーフとナンナは顔を見合わせた。ドリアスも自然に口に出た言葉に苦笑しながら無言の問いに答えることにした。
「良い機会です。フィン様のこと少しお話しいたしましょうか…」
「本当か?フィンは自分のこと全然話したがらないんだ」
「ドリアス伯爵、是非お願いします」
と、リーフとナンナは瞳を輝かせてドリアスの言葉に耳を傾けた。

「フィン様は…レンスターでは唯一の公爵家のご出身です。代々ランスリッターの長を勤められるお家柄で、私もフィン様の父君に部下としてお仕えし、尊敬しておりました。私はフィン様が成長されるまでという期限付きでランスリッターをお預かりしたのですが、不徳のいたすところで…」
 ドリアスは声を詰まらせた。リーフとナンナは何と言葉をかけるべきか考えあぐねた。
「…これは申し訳ない。フィン様の話でしたな」
ドリアスが自分で話の軌道を修正したことにほっとしながら、リーフは質問した。
「…フィンは、父上の従者だと聞いていたけど?それにフィンの父上って…早くに亡くなられたのか?」
「えっと…どこからお話ししましょうか?父君がトラキアとの戦いで戦死されたのは…確かフィン様が十歳の頃だったと思います。本来ならお若くても家を継がれることには何ら問題がなかったのですが、他の貴族達はこぞってフィン様の後見に付きたがりました。…将来の見返りを期待していたのでしょう。しかし、爵位の下の者が上の者の後見人になるのもおかしな話です。そして、父君はフィン様に実力でランスリッターになることを望まれていた。陛下はその意を汲まれ、フィン様を引き取り、領地と爵位も成人なさるまで王家預かりにするということに決められました」
「…それで父上の従者となったのか」
「そうです」
「あの…」
 それまで黙って話を聞いていたナンナが口を挟んだ。
「お聞きしたいことがあります…」
「何でしょうか?ナンナ様」
ナンナはしばらく躊躇っていたが、意を決したように、
「お父様と…父と母は本当に夫婦なんでしょうか?」
と問いかけた。しかし、その瞬間後悔したのか顔を伏せた。ドリアスは予想していた問いであるとはいえ、返答に窮した。
「…いろいろな噂が流れているのは私も存じていますが、それはやはりご本人に聞くのが一番なのではないですかな」
予想していた答えにナンナの頭はますます項垂れた。
「でも、フィン様がお話しするとは思えません。父上が知っておられることをお話しして差し上げるべきでしょう!」
 鋭い声が背後から響いた。いつからそこにいたのか、セルフィナが声と同様鋭い視線で父を睨んでいた。
「セルフィナ…そうだな…。フィン様とラケシス様を追い詰めたのは我々なのだ…。だが、本当の夫婦とは何か?お前は答えを持っているのか?」
「父上…」
父の言葉が意味するものを悟ったセルフィナは言葉に詰まり、俯いた。ドリアスは娘の傷を抉ったのを後悔し、娘を慰めるように付け加えた。
「無論、今では疑問の余地など挟みようがない。しかし、夫婦にもいろいろな形があり、一概には言えないのもわかるな」
「…はい」
 セルフィナが頷いたのを確認して、ドリアスはナンナの方に向き直った。
「答えはフィン様とラケシス様にしかわかりません。いえ…ナンナ様、あなたの中にもあるはず。ですが、私が事実として知っていることはお話しいたします」
「ドリアス伯爵…」
ナンナは真直ぐ顔を上げ、涙をためた瞳でドリアスを見つめた。ドリアスはナンナの傷の深さを知り、心を痛めた。

戻る 次へ 本箱へ