ターラから脱出するのは解放軍とリノアン達だけのはずだった。しかし、やはりトラキアの支配に不安を抱いたのだろう。多数の市民が同行を申し出た。速やかな行動が要求されていたが、夜になっていたこともあって行軍の速度は極端に落ちてしまった。トラキアの攻撃こそなかったが、ベルクローゼンとシレジアの傭兵隊による機動力を生かした攻撃に身動きが取れない。
 ナンナは後方で市民の護衛に当たっていた。先行部隊が谷の出口で待ち受けているはずの敵を叩くまでは無闇に動くべきではないという判断からである。敵は暗闇からいきなり現れ、市民を狙ってくる。その恐怖は市民達がパニックを起こすのに十分だった。恐慌を来した市民達は我先にと先へ進もうとする。数少ない兵力で護衛しなければならない解放軍は市民を一ケ所に集めようとするが、市民達は最早指示を聞こうとしない。統率すべきリノアンは前線にいる。無秩序に支配されている市民の怒りの鉾先が解放軍に向けられようとした時、凛とした声が谷に響き渡った。
「皆さん!どうか落ち着いて下さい!皆さんのことは私達が必ずお護りします!お願い…信じて!」
ナンナの自信溢れる笑顔を見た者から我を取り戻していった。そしてナンナの顔が見えぬ者も谷にこだまする澄んだ声を聞き、落ち着いて解放軍の指示に従いだした。聞こえなかった者も周囲が落ち着くのを戸惑いながら受け入れた。そして徐々に谷の出口に向かって進み始めた。
 やがて敵の攻撃は途絶え、市民達に安堵の表情が浮かぶようになった。ナンナと同じく護衛に当たっていたセルフィナがナンナに声をかけてきた。
「ナンナ様、先程は見事でございました。さすがラケシス様のお嬢様だけありますわ」
「…セルフィナさん…。自分でもあんなことができるなんて思いもしませんでした。あの時は無我夢中で、今思うと顔から火が出そうです」
ナンナは苦笑しながら先程とは打って変わった表情を浮かべた。その時、前方から馬の蹄の音が聞こえてきた。わずかに姿が見えるようになるとナンナはパッと笑顔を輝かせて駆け寄った。
「お父様!」
「ナンナ、皆無事か?」
「はい、何とか無事にここまで来れましたわ」
「そうか…。待ち伏せていた部隊も撃破した。疲れてると思うが、できるだけ早く谷を抜けよとのリーフ様のご指示だ」
「わかりました」
ナンナは振り向いて再び市民達に呼び掛けた。
「皆さん、谷の出口まで安全は確保されました。お疲れでしょうが、夜が明けるまでに谷を抜けようと思います。あともう少しです。頑張りましょうね」
市民からの熱狂的な反響を見て、フィンは呆気に取られた。ナンナが先頭に立つことなど今までになかったことだったからだ。
(しっかり受け継いでいるのだな…)
 フィンは心の中で安堵しつつも、表情には出さず、ナンナに次の指示を与えた。
「ナンナ、お前は先行してくれないか?…カリンの側にいてやってくれ」
ナンナはハッとした。今回の戦いにおけるカリンの働きは目覚ましかった。市民を狙う天馬騎士達を率先して倒していた。戦争というものはそういうものであるとナンナも十分認識していたが、認識と感情というものは往々にして一致しないものだ。このような形で同郷の者と刃を交えることになろうとは。カリンの心中を慮るとナンナの胸は痛んだ。そしてまた近い将来自分にも起きることなのだと心に刻んだ。
 しかし、それ以上に嬉しかったことは父が友にも気を配っていてくれたことだった。マンスターで初めて出会ってから、カリンの気さくな人柄のお陰で、ナンナは随分救われていた。人見知りするナンナにしては珍しくすぐに友と呼べる関係となった。それをナンナは父には一言も言ってないのに、ちゃんと見ていてくれた。ターラでもそうだった。本当に辛くてたまらない時にはそっと手を差し伸べてくれる。願わくば、父から直にその心を受け取りたい…。
(本当に私ってわがままね…。でもお父様の本当のお気持ちを知りたいの…)
ナンナは後方に残った父を何度も振り返りながら、前線に向かって馬を走らせた。

 谷を抜けようかというところではリーフ達が市民達を待っていた。ナンナの姿を認めたリーフが側へ寄ってきた。
「ナンナ!」
「リーフ様…」
「よかった…元気になったみたいだね。ずっと気になってたんだけど、話すチャンスが無くって…」
「…ご心配かけてごめんなさい。もう大丈夫です」
ナンナはにっこりとリーフを見つめた。リーフは少し顔を赤らめ、俯いた。
「ナンナ…きっといつか本当のことがわかるから。…今は進むことだけ考えよう」
ナンナはその時初めてリーフが自分の悩みを知っていたことに気付いた。
「リーフ様…」
自分は独りではない―当たり前のことを初めて実感できたような気がした。そしてその当たり前のことが何よりも大切なのだとナンナは悟った。
 先行部隊の中にカリンの姿が見つからないので、ナンナはリーフに尋ねた。
「リーフ様、カリンは…?」
「うん、偵察を兼ねて先に谷を抜けてもらった。少しでも気が紛れるといいけど…。エダについていってもらったんだけど、彼女もショック受けたみたいだ…」
「ターラで気にかけていらっしゃったのはこういうことだったんですね」
「シレジアでは帝国側についた者も多いらしいから、カリンも覚悟はしていたみたいだ。でもトラキアは傭兵の国だけど敵味方に分かれることなんてないみたいだからね。縁を切ったって言っても、彼等はアリオーン王子の意向を受けているのだから…。悪いけどナンナもマリータと一緒に先に行ってくれないか?僕は最後までここに残るから、何かあったらエダに連絡させて」
「わかりました。後のことはよろしくお願いします」
ナンナは最初に到着した市民の一団と共に谷を抜けた。

 ターラから脱出した市民達とは別れを告げ、リーフ達はレンスターを目指すことになった。市民達の今後が気になるところだが、リノアンは受け入れてもらえそうな土地に数ケ所心当たりがあったので親書を持たせて行かせることにした。フリージ軍に追われている解放軍と行動を共にするよりはよほど安全であろう。解放軍がフリージ軍を引き付けていれば彼等の安全もより増すのだから。
 レンスターへ向かうには二つのルートがあった。海岸を東進するルートと迷いの森を抜けてレンスターの南に出るルートである。海岸ルートはフリージ軍の精鋭が待ち受けているのは確実である。森ルートは迷いの森という名が示す通り、迷ってしまえば脱出は困難となろう。ただし、フリージ軍の戦力は薄いだろうと予想できる。二人の軍師の意見は真っ向から対立したが、リーフは迷うことなく海岸ルートを選択した。
「アウグストの言うことはよくわかる。でも迷いの森へ入れば、ターラ市民が追われることになるだろう。戦力の差は余りにも大きい…けど、うまくやれば戦力差をカバーできることはこれまでの戦いでよくわかった。そしてノルデン砦を突破できないようであれば、レンスター城を奪還できたとしても防衛することなど不可能だ。もし森を抜けたとしてもノルデン砦の戦力がそっくりそのままこちらに攻撃してくることになるだろう。万一再びレンスター城が落ちてしまえば…」
「承知いたしました。リーフ王子がそこまでお考えであるのなら、何も申しますまい…ただし相当危険な選択であることはお忘れなきよう」
アウグストの言葉にリーフは大きく頷いた。

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