しばらく物思いに耽っていたフィンの横でため息が聞こえた。ナンナだった。彼女も何か考えるところがあったらしい。表情が暗く沈んでいる。
「ナンナ…」
その声に振り向き、父を見て微笑んだ。
「やっとここまで来ましたね。…でも考えている時間はなさそうですわ。皆も中に入りました。行きましょう」
口ではそう言いながらも、ナンナの脳裏では二つの言葉が渦巻いて消えることはなかった。
 ―偽装結婚…近親相姦…。
 大陸の他の地域―王侯貴族は特に―では異母兄弟の結婚は認められていた。もっとも近年はその弊害が知られてきて、流石に数は減っていたが。しかしトラキア半島では最も忌むべきものとされている。それはダインとノヴァの時代に遡るらしいが、詳しい話は伝えられていない。トラキア半島で育ったナンナにはトラキアの価値観が根付いていた。だからこの言葉の意味を知った時、ナンナは母に初めて嫌悪感と不信感を抱いた。
 そして偽装結婚。ノディオンを再興するために、伯父の一粒種を探すために母はレンスターにやって来た。グランベルから追われている母はレンスターに滞在するのに正当な理由が必要だった。そのためだけに母は父と結婚した。母が父の許を去ったのは従兄が見つからず、最早レンスター(既にそこからも追われていたが)にいる必要がなくなったから。他にも様々な噂が飛び交っていたが、中にはナンナ自身の父親さえも取り沙汰しているものもあり、母と伯父に関する噂以上にナンナは傷付いていた。それは父に対する愛情の現れなのだが。
(お母様が探しているのはお兄様ではなくて、従兄ではないの…私は捨てられたんじゃ)
(お父様はどうして何も言って下さらないの?噂が本当だから?)

 ターラに入城し、市長のリノアンと再会したリーフ達であったが、再会を喜んでいる暇はなかった。フリージ軍の総攻撃が始まったのだ。ナンナは心虚ろな状態で戦場となったターラ市街に立っていた。
(こんな時なのに、私は何を考えているの!?)
気乗りしない自分を叱咤しつつ、領主館防衛をまかされたナンナは近くの宿屋を訪ねた。そこで出会った吟遊詩人の態度に無性に怒りを覚えて手を上げてしまった。
「恥ずかしいとは思わないのですか!」
それは自分に向けた言葉でもあった。思わず涙が込み上げてくる。
(本当に恥ずかしいのは私の方だわ…)
急に泣き出したナンナに困惑した吟遊詩人ホメロスは手助けすることを申し出た。
「…ありがとう。よろしくお願いします」
そう言って微笑んだナンナの笑顔はホメロスから下心を洗い流してしまった。
「俺としたことが…やれやれだぜ」
 宿屋から出たナンナはロングアーチの集中砲火を受けることとなった。最初の攻撃はかろうじて躱せたが、次の攻撃に対する反応が遅れてしまった。直撃を覚悟したが、一陣の風とともに目の前に現れた人物が矢を払い除けた。
「マリータ!…どうして?」
マリータは剣を一振りして、ナンナの方を振り返った。
「ナンナ様、お怪我は?おじさまが領主館の防衛に回るようにって。…本当はナンナ様のことが心配でたまらないって正直に言えばいいのにね」
悪戯っぽく笑うマリータにナンナもつられて微笑んだ。
「ありがとう…マリータ…ここが落とされたら前線の奮闘が無駄になってしまうわ。がんばりましょう」
ナンナは表情を引き締め、戦闘体勢をとった。しかし心の中は熱いもので満たされていた。
(お父様…)
 一方、戦況は芳しくなかった。リノアンの護衛をしていたディーンとエダという竜騎士が加わり、何とかフリージ軍の猛攻を凌いでいたが、ベルクローゼンとトラキア軍の出現に八方塞がりの状況となった。それでも徹底抗戦するしかないと腹をくくっていたところへトラキア王子アリオーンが降伏案を持ってやって来た。リノアンは婚約者の勧めに従うことにした。もちろん、リーフは反対した。
「トラキアに降伏するなんて、絶対ダメだ!返還なんか嘘に決まってる」
「リーフ様。我々はリノアン様が決められたことに口出しできる立場ではありません」
それをたしなめたのはアウグストでもドリアスでもなく、フィンであった。トラキアに対する不信感は自分以上であるはずのフィンの発言にリーフは理解できないと表情で示した。フィンは諭すように言葉を続けた。
「ターラ市長が判断されたのです。援軍に来たとはいえ従うべきです。それにリノアン様はアリオーン王子と許嫁の仲。トラキアとは友好関係にあるといっていいでしょう。そのターラがリーフ様や私達を匿って下さった。…それがどういうことかおわかりになるでしょう?」
「………」
「私はアリオーン王子が信頼に足る人物かどうかは存じません。我々に脱出の機会を与えたのも罠なのかもしれません。しかし、現状では最良の案だと思われます。少なくともターラ市民にとっては」
「…そうだな。肝心なことを忘れていた。リノアン、感情に走ってしまって、すまない」
「いいえ。リーフ様の危惧は当然です。トラバント王は返還の約束など認めないでしょう。ですが、アリオーン様は誠実な方です。私はそれに賭けてみようと思ったのです。それにアリオーン様は一度リーフ様とお会いしたいともおっしゃっていました。アルテナ様とご一緒に。それは過去から脱却したいと思ってらっしゃるからだと…」
「アルテナ!?」
それはレンスター関係者全ての言葉だった。その反応にリノアンは戸惑ったが、すぐに合点がいった。
「アルテナ様はアリオーン様の妹姫様ですわ…それにしても奇遇ですわね」
(奇遇?…それで片付けていいのか?)
 フィンは納得がいかなかった。少なくともアルテナ誕生時にはトラキアには王女は生まれていなかった。敵対する国の王女の名を普通自国の王女に付ける訳がない。考えられることは二つ―アルテナという名に心を痛めるレンスター国民への精神的攻撃、そして…。キュアンを屠ったトラバントはゲイボルグの奪取を高らかに宣言するはずなのに、ゲイボルグの所在については何も言及していない。そしてイードの虐殺後に現れたらしいアルテナという名の王女の存在。それが導く結論にフィンは愕然とした。
(それどころではなかったとはいえ…トラキアの内情に注意を払っておくべきだった…しかし、今考えていても仕方がない)
混乱の渦に呑まれているレンスター関係者を見て、フィンは早々にこの話題を打ち切る必要を感じた。それはアウグストも同じだったようで、リーフに進言した。
「ぐずぐずしていては敵に追撃準備の時間を与えてしまいますぞ。直ちにターラ脱出のご命令を」
「私と一緒にディーンとエダも同行してもよろしいでしょうか?」
リノアンの申し出にリーフは一瞬戸惑ったが、頷いた。
「…ディーンとエダが信用できないって言ってる訳じゃないんだ。わずかな時間だけど一緒に戦って人柄もよくわかってるから。でも、僕と一緒ってことはトラキアと戦うことになるかもしれない…」
「お心遣いには感謝する。しかし我々はトラキア軍とは縁を切っている。リノアンが雇った傭兵として扱ってくれればいい。…裏切りが気になるのなら我々は作戦には関与しない。指示に従うだけだ。もっともリノアンの身に危険が及ぶようであればそれなりの行動はとらせてもらう」
「わかった。こちらもそれで構わない。ディーン、エダ、よろしく頼みます」
リーフの笑顔を見たディーンとエダは既視感を覚えた。アリオーンになくてアルテナにあるもの。それをリーフから見い出していた。しかし同時に不安を覚えた二人は無言で頷くだけだった。

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