「今のうちに手当てをしておきますわ。お怪我はありませんか?」
 ライブの杖を抱えたナンナだった。慌てて意識を現実に引き戻す。
「私は大した怪我はない。他へ…」
「他の方達はもうサフィと二人で済ませました。残りはお父様だけです」
ふいと横を向く。フィンは苦笑した。
(そういえば私がリーフ様に合流して以来話すこともなかったか…)
「ライブが不要でしたら、もういいです」
不満げな表情でフィンから離れようとした。
「杖に余裕があればお願いしようか」
ナンナは予想外の言葉に一瞬戸惑ったが、すぐに満面の笑顔に変わった。
「はい!杖はたくさん手に入りましたから安心してください」
ライブの杖をかざしながらナンナはフィンの袖口から腕に布切れが巻いてあるのが見えた。血が滲んでいる。
(軽い怪我じゃないわ…。もしかしていつも我慢してらしたのでは?)
 涙が出そうだった。いつも軽やかな槍さばきで攻撃をかわす父。負傷する時はいつも誰かをかばってのことだった。だから怪我なんかするはずないと思っていた。だが、激しい戦闘が続いているのに無傷でいられる訳もない。それに解放軍の台所事情の厳しさを補うため、敢えて敵を捕らえ武器を奪う…危険を伴う戦い方をしているのだ。それでも苦痛を顔に出すことなく、常に前線で戦っている。そして今も杖の在庫を気にし、自分は後回し…。それは何よりナンナとリーフに心配をかけないため。父の心に気付いた時、ナンナは誇りに思うと同時に悲しくなった。
(どうして一人で背負い込もうとするの。私ってそんなに役に立たないの?それとも…)
「大分上達したようだな」
「え?」
「すっかり楽になった。もう足手まといなどと言ってられないな」
「本当ですか!」
喜びが表情を輝かせるのもつかの間。すっと表情を引き締め父を見つめた。
「もっと杖のレベルを上げて無駄遣いしないようになってみせますから、お父様も怪我をすれば私にはちゃんと言ってください!お願いですから…」
真剣な表情に圧倒されたのか、フィンは素直に頷いた。
「じゃあ、私お食事の準備に加わりますから。今日はゆっくりなさってね」
 ナンナは笑顔で部屋を出ていった。久しぶりに娘の笑顔を見たことがフィンにとっては何よりの癒しになった。フィンは見送りながら左腕の布切れを外した。傷は最初からなかったかのように消えていた。
 
 ナンナと入れ違いにドリアスが部屋に入ってきた。懐かしそうにフィンを見る目にわずかに光るものがあった。
「あなたのご決意は間違ってはいませんでしたな」
「ドリアス伯爵…」
「フィン様、ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした」
「あの…」
(相変わらずだ…)
フィンは苦笑する。爵位を授かる前にレンスターが侵略されていまい、公的(その『公』すら今はない)にはフィンは近衛の騎士に過ぎないというのに、父の部下だったドリアスは未だにフィンにも敬意を払っている。フィンは他の騎士と同様に扱ってほしいと何度も頼んだが、呼び方以外は変わることはなかった。ずっと居心地の悪い思いをしていたが、そのおかげでフィンは自分の願いを通すことができたのだから気にする方が勝手なのかもしれない。
「これは失礼しました。久しぶりでしたのでつい…。フィン殿、本当にお父上に似てこられましたな。見間違うほどでしたぞ」
「そんな…。父の年を追い抜いてしまったのに、父には足下にも及びません。恥ずかしいことです」
「そんなことはありませんぞ。境遇が全く異なっているのです。単純に比べることはできませんが、リーフ様とナンナ様を無事にここまでお育てになられた…これは貴殿以外にはできないことだと思います」
「ありがとうございます…。ですがリーフ様とナンナが健やかに成長されたのは、私達を助けて下さったたくさんの方々のおかげです。そしてお二人を導いて下さる方とも巡り会えました。それに甘えて結局私は何もできませんでした。それに私はレンスターの騎士として失格です」
「フィン様…。アルスター陥落の時は確かに貴方のお考えにわがままであると反対いたしました。しかし、あの混乱の中ナンナ様をお守りできたかどうか…。事実生き残った者はターラに行った者もおりますが…ご覧の通りです。あの時はひどいことを申し上げてしまい、心からお詫びいたします」
深々と頭を下げるドリアスをフィンは慌てて制した。
「伯爵、お顔を上げて下さい。おっしゃる通り無謀だったのです…。私達が生き延びてこられたのは幸運でしかありません。私はリーフ様を必要以上の危険にさらしてしまったのです…」
「幸運とおっしゃられるのなら、我等も同じこと。もうご自分を責めなさるな。レンスターはノディオンに対して二度も過ちを犯すところでした。それはキュアン様のお望みではない。貴方はキュアン様の願いを、それも不可能と思われることを果たされた。誇りに思うことはあっても、ご自分を貶める必要はありませんぞ」
 フィンの意識は一気に十五年ほど前のレンスターに飛んだ。故郷の思い出は常に鮮やかな色彩で彩られているが、この時期の思い出だけはグレイのフィルターがかかっている。あの時ほど自分の無力さを思い知らされたことはなかった。託されたものの重さに押しつぶされそうでもがいているだけだった。そして唯一鮮やかだったもの―それすら自分で塗りつぶしてしまった。フィンの表情がますます苦いものとなった。
「ですが、私は自分の行為を正当化するために…」
「あの時は仕方なかった…。情けないことに私を含め、あまりに愚かだった…。そのためにフィン様やラケシス様を追い詰めることに…」
再び頭を下げるドリアス。フィンは自分の感情が堰を切って流れ出そうとしていたことに気付き、何とか押しとどめようとした。
「私の方こそ自分で決めたことなのに、愚痴を零してしまいました。つい伯爵に甘えてしまって…申し訳ありません。この話はもう止めましょう。まだまだ先は長いのです。それに過去は取り戻せません」
自分に言い聞かせるように語るフィンの思いを察したのだろう。ドリアスは諭すように、
「そうですな。レンスターを取り戻す戦いはやっと始まったばかりなのですから。ですが、過去は取り戻せなくても、何らかの救いはあるはず…。そう信じたいものです」
その言葉はフィンの心に染み込んでいった。そして後に何度も思い返すこととなる。しかし大きな喜びの影で常にやるせない思いに苛まれることになったのだが。

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